ワット・ローカヤースッターサガット(Sagat)が死闘を繰り広げた寝釈迦の大地は、広く、そして青かった。 目の前に広がるアユタヤの大空を前に一枚、二枚とカメラのシャッターを 押し始めた。 |
パシャ、パシャリ。感無量、その一言だった。 ・・・悠久の歴史に思いを馳せ、この大地で一休を頂こうかな。と、ペットボトル 水のキャップをひねり、冷水で喉を潤した。片手間でガイド本の当該頁を開く。 何百年も横たわった釈迦の眼差しを前に、アユタヤの歴史を紐解いてみることにした。 「はうあっ!」 こう書かれている(全長29mの寝釈迦仏は1956年にタイ芸術局に よって復元されたもの。)・・・なんだ、最近作られたものだったらしい。 |
ワット・プーカオ・トーンワット・プーカオ・トーンの位置はアユタヤの中洲から外れている。 運河を渡り北上すること、道路沿いに数キロ移動しなくてはならない。 |
付近は長閑な田園風景が広がっている。 |
仏塔が白いのが特徴だ。 |
上段のテラスからは、アユタヤの景色が一望できる。 |
裏にはレンガ式の仏塔が6基建っている。 |
ワット・チャイワッタナーラーム |
そのまま、運河沿いに南下すると 『ワット・チャイワッタナーラーム』に行き着くことができる。 |
トゥクトゥクの親爺が言った。 『この遺跡、very biggest だから観光に時間掛かるねぇ。 ワタシ、ご飯にさせてもらうね』 親爺は右手を口元に寄こし、片手で何回も仰ぐ仕草をしてみせた。 箸で茶碗からご飯を掻き込むジェスチャーをして 、自分の食事時間を確保したい意図を伝えてきた。 ここら辺のジェスチャーは 国柄問わず万国(バンコク)共通か・・・ などと独りで駄洒落に納得して、ニヤニヤしながら 『ワット・チャイワッタナーラーム』の正門をくぐった。ちなみに、入場料は 50B。 |
石仏は根こそぎ首を狩られている。その昔、 ビルマ軍の侵略により、この地は軍の駐屯地になったとのことである。 |
運河沿いの遺跡だ。 |
ふらふら歩いて30分くらいで観光を終えて駐車場に 帰ってきた私をみつけて、トゥクトゥク親爺は 『オメー、案外早かったな』 チョッと驚いて そう言うと、爪楊枝を唇で咥えてシーシー言いながら 次なる場所へと案内してくれた。そこは、アユタヤの中でも 日本人観光客が必ず立ち寄る場所なのだという。 日本人町 |
ワット・チャイワッタナーラームから運河沿いに東に 数キロほど行くと、『日本人町』がある。入場料は50B。 |
つまり、この付近に、その昔シャム国へと渡航した 日本人達の形成した日本人町があったのだ。チャオプラヤー川( 南に下るとそのままバンコクまで流れて、最終的にはタイ湾に至る)の 沿岸付近には、日本人町のほか、オランダ人町、ポルトガル人町、英国人町など 外国人居住区が 密集していた。 |
最盛期には3000人を超す日本人が居たとされるが、最近の研究では大体800人くらいだろうと されている。中でも有名なのが山田長政だ。 軍隊を指揮し、宮廷でも信頼を得るまでに成長したという。しかし、当時日本人町や他の外国人居住区が 中洲に無かったことろをみると、やはり一定の隔絶的措置はあったのだろう。 |
アユタヤは交易により栄えた歴史があり、中国からは陶器や茶など、日本からは日本刀などが 好んで取引きされた。アユタヤの発掘により、日本刀や陶器が出土される事があり、品は現在 施設内の展示で見ることができる。 |
その他、同施設には小さな映画館があり15分程度のアユタヤと日本人 の辿ってきた歴史について上映している。 日本語字幕も付いていて、なかなか面白い内容だった。 |
17世紀初頭、王朝の後継お家騒動に巻き込まれ長政は暗殺され、 最終的に日本人町は焼き討ちに遭った。 ナレースエン大王像 |
その他のアユタヤの景色。高い建物が無く、見晴らしが良い。 |
その後、トゥクトゥクでバンコク行きロットゥー乗降場まで連れてもらって、 ミニバス乗車後、1時間後には無事バンコクまで辿り着けた。帰りのバス内は、乗客は疲れていたのか 皆んな無口でグッタリしていた。 アユタヤでもバンコク同様に年中気温が高く、思いのほか体力を消費する。私も 帰りは泥の様に寝込んでいた憶えがある。 さて、明日はバンコクの渡航理由のもう一つである、 『解剖学博物館』に行ってみようかな。 |