高麗山高麗山(こまやま)は、奈良時代に山側一帯を高句麗の渡来人が 集落を作ったことに由来します。その後も歴史の舞台に度々登場しました。1438年:上杉持房が陣を敷き、城砦構えを構えた。 1510年:北条早雲が篭城した。 1560年:上杉謙信が小田原征伐の際に本陣を敷いた。 標高は168mで綺麗なお椀型の外形をしています。更に西方向に 三峰から連なり 、通しで程好いハイキングコースとして山道整備されています。 湘南平にはテレビ塔があり、展望台から 大磯の海岸線を遠望できます。 |
高麗山には昭和40年代までマツの大径木が繁殖していたといいます。 安藤広重の錦絵にも描かれる、大変優美なものとして名を馳せていたようですが、 マツノザイセンチュウ(松くい虫)の被害で昭和50年には1本も無くなってしまった ようです。 坂田山心中 |
連峰のハイキングコースは幾つかの分かれ道になっており、浅間山頂上付近から 高田公園辺りの山道は坂田山と呼ばれています。 1932年、坂田山の山道で若い男女の心中事件が起こりました。 共に高貴な家柄の出身で、特に女性の容貌は非常に美しかったようです。取り敢えずは 、発見当日 から遺族が到着するまでの間、寺に仮埋葬することにしました。 ところが、翌日になると女性の遺体だけが何者かに持ち去られ、 辺りには身に着けていた衣類が散乱した状況だけが残っていた、という 前代未聞の猟奇事件に発展しました。警察が捜索したところ、仮埋葬地から 300m離れた船小屋で遺体を発見。程なくして、火葬場職員が逮捕されました。 警察は検死の結果、「持ち去られた遺体は外傷等無く、処女であった」 と発表(真相は不明)し、メディアは一斉に、 二人の心中を純潔に香高い「天国に結ぶ恋」だと報道 しました。これに伴い、同名映画が事件のたった1ヶ月後に即時製作され、結果、大ヒットを記録し 歌謡曲も作られ一大ブームを巻き起こしました。 世間は異常な過熱ぶりで、何と当地の坂田山は心中のメッカになってしまい、 この事件から2〜3年の間に計200人あまりの自殺者を出してしまったそうです。 |
山道を歩いてみましたが、現在、この事件についての 碑や解説表などは存在していない ようでした。あまり引っ掻き回して欲しくない、という地元の方の意向もあるのでは ないでしょうか。R1沿い にある鴫立庵に、二人の恋を哀れんだ碑である「比翼の塚」が辛うじて残っている程度です。 鴫立庵 |
鴫立庵は、京都の落柿舎、滋賀の無名庵、と共に日本三代俳諧道場 に数えられています。創建は1695年で「湘南発祥の地」だとされています。 |
島崎藤村邸 |
アオバト照ケ崎海岸の岩礁にアオバトの飛来地があります。大磯の代名詞とも云える一大観光 スポットで、時期的には5月〜8月にかけて観察できるようです。アオ、というよりは緑色に近く、付近を飛んでいるカモメやカラスと はハッキリと識別できる艶の有る鮮やかな色彩の鳥です。なので、群れで飛来している際には 機会が訪れれば 直ぐにそれだと分かるでしょう。磯の窪みに溜まった海水を飲 む目的でやって来るのだそうで、吸飲の動機は完全には解明されてい ませんが、普段の摂取する果実などの食べ物の他に、塩分やナトリウムを補給する目的 があるのでは ないかと推測されているそうです。 |
アオバトの用心深い生態 からも手伝って、観察は岩礁から約30mくらい離れた遠視からになります。 集まっていた人々は皆さん、バズーカーみたいな超望遠レンズと三脚台の完全装備 が殆どで、かなり本格的です。 舐めたコンデジとゴリラポッドの陳腐な組合せで登場していたのは 私くらいなもので、結果として撮れた写真が、やっぱりこの程度でした・・・・ |
それでも、地元の方なのか集まっていた人の中の一人に質問して みると、色々と親切に教えてくれました。 「何時くらいが一番いい観察時期ですか?」 『そうだな、だいたい8月の早朝7〜8時くらいがベストだな。 多い時は150羽くらいのアオバトが塊となって押し寄せるんだよ。 そりゃ〜壮観だよ。』 「あんまり、岩礁に長く居座らないようですが・・・」 『まあ、やつらも命懸けだよ。 台風や波が高い日は一瞬にして飲み込まれることもあるだろうしな。 岩に大波がぶつかり飛沫が上がる瞬間をバックにして アオバトを撮影したいんだが、なかなかに難しくてなぁ・・・』 見たところ、多くの方々はアオバト撮影のリピーターのようで、 周囲の話ぶりから顔見知り同士のアオバトコミニティーが形成されている感でした。 照ケ崎海岸で観察できるのは夏季に限られているようです。 冬季は西日本方面へ移動するとのことです。 |
大磯は避暑地としても有名で、明治時代より政界要人達の別荘地 が多く建てられました。伊藤博文から大隈重信、原敬に吉田茂まで歴代総理の8人が邸宅・別宅を 構えた土地で、特に吉田茂の場合、影響力は総理退任後も強大であったようです。 隠遁後 の吉田を訪ねる政治家の行動を「大磯詣」と呼んだ時代もあったそうです。 |
吉田邸をR1を挟んで、目の前が城山公園になります。 旧三井財閥総本家の別荘地として開かれた場所で、現在は公園として 無料で開放されています。 敷地中央の海抜42mの 展望台からは富士山が望め、一方、相模湾方向に目を向ければ 三浦半島や 真鶴半島、晴れて澄み切った天気であれば伊豆半島の先端まで遠視できます。 展望台の脇には、「北蔵」と呼ばれる三井家別邸時代に 建設された蔵が残存しています。昭和16年創建とあり、ギャラリーとして 内部の入場も可能になっています。 |
展望台を降り、北方向に進むと国府橋(こうのはし) と呼ばれる架け橋があります。 国府を「こうのまち」を言って、平安時代に国府が置かれた事に由来する命名なのだそうです。 降り切ると不動池に至ります。悠然と泳ぐたくさんの 錦鯉達が目を楽しませてくれる場所になっており、秋の紅葉の季節には池全体を ライトアップさせる演出も催されます。 |