生きてる事が功名か


   紀元前後の大遺跡群の所在が アテネ市の西一帯なら、対する、東一帯は政治、行政、近代文化施設 の集合地である。


シンタグマ広場 シンタグマ広場


シンタグマ広場  アテネ  SYNTAGMA Sq





   地下鉄『シンタグマ駅』の出口にあたる、この シンタグマ広場は、1843年に国家の独立を果した際に憲法が発布された 場所で、今は、噴水を中心とした公園になっていて 、待合場所などにもよく使われている場所のようだ。


    この シンタグマ広場を道路(アマリアス通り)を挟み、 対面にあるのが国会議事堂と無名戦士の墓で、南に下って国立庭園、更に南東に 1,5kmほど行くと近代オリンピックの初開催地 『パナティナイコ・スタジアム』へと行き着く。




パナティナイコ・スタジアム


周辺地図 リカヴィトスの丘から、ゼウス神殿の奥にスタジアム



    私の場合は、ゼウス神殿経由でフラフラ適当に歩いていたら 辿り着いたので、地下鉄『アクロポリ駅』のほうが近いかもしれない。 オリンピックスタジアムといっても 、山を切り崩したような場所に扇型の形状をして建築されている。 全体的な造型はリカヴィトスの丘に登れば、つかみやすい。


    ゼウス神殿の奥の小丘の一方向が 開いている形で、一番初めはこの丘の中腹にリュクルゴスが、 小規模な スタジアムの原型を作ったのが始まりだ。時代としては前330年の事になる。 これを増築し豪華な大理石で客席を設置したのが、アテナの ヘロデスという男だった。この施工は140年ころ執り行われている。


    その後、 ずっと時代下り19世紀の末に、 アテネの大富豪だったアベロフという人物 が資金の援助を行い、 これによって最終的に、第一回近代オリンピックまでを行う レベルの スタジアム完成をみた。





    入口には従業員らしい人間もいない。キョロキョロしながら 辺りを見まわしていると、遠くから私を呼ぶ声がする。





『おい、小僧!まずはこっちで入場券を買え』






入口 入場券販売所


    ホイッと、ガラス越しに3ユーロと出すと、中の男が続ける。





『フリーでガイドを付ける事もできる。どうする?』




「いらないですぅ」




『そうか、わかった。まあ、ゆっくりしていけや』





パナティナイコ・スタジアム Royl Boxes of 1896


    競技の無い競技場とは、かなり閑散としているものだ。 しばらく 歩いた先、 5万人が 収容できる巨大スタジアムの一番奥には、2席並んだ石座があり、 こちらは1896年に行われた記念すべき第一回近代オリンピックの 特等席だった場所で、Royl Boxes of 1896と呼ばれている。





『HAHAHA〜、COME    ON!   COME   ON!』


『GOAL   GOAL   GOAL   GOAL   GOAL〜〜〜〜〜!!』






   時々、現れては消える数人組の観光客グループが、折り返しトラック の切れ目に白地の細長いテープをピンと張り、それを切る、という マラソンのゴールシーンを再現した動画を撮影してる。素人ながらにも、 カメラ係、役者、テープ持ち係と器用に分担している。その劇的な瞬間を、 旅の記念としてドラマ仕立てに収めておこう、という試みなのだろう。 後に続く旅行者も同じ様なことをしていた。



表彰台 パナティナイコ・スタジアム


オリンピックスタジアム アテネ パナティナイコ




   1896年の第一回から、ちょうど 節目にあたる 108年後の2004年に 再びアテネオリンピックが開催された。陸上競技マラソンでは、当然、 マラトンから42.195kmを駆けて辿り着いた先の栄光のゴール地点が、 ここ 「パナティナイコ・スタジアム」 に設けられた。この オリンピックで、輝かしい偉業を成し遂げたのが、日本女子マラソン 金メダル獲得の 野田みずき選手だ。


パンフレット パンフレット



   入口の脇に石碑が建っていて、第一回のオリンピック 開催から、現在まで、歴代 の開催都市名がギリシャ語で刻まれている。


開催地の都市名 開催地の都市名




   アッティカ沿岸でおこった マラトンの戦いで、 対ペルシャ軍を撃破した勝利の報告を逸早くアテネに伝えるために、戦いに参加 した一人の兵士が 死を賭して走り抜けたことが、競技『マラソン』の由来になった。 1982年より、この伝統のコースで アテネクラシックマラソンが行われるようになっている。




アテネとマラトン 五輪旗




無名戦士の墓


   国会議事堂の隣にある細長い石の碑だ。トルコからの 独立に命を落とした戦死を弔う為に1932年に建てられた。


無名戦士の墓 無名戦士の墓



    衛生兵がおり、小屋から独特の動きで交差したり、 規則的に歩いて、交代式を行う。 靴先は元々のフォルムでなく、ボンボンが付けてあるものであるらしい。 この民族衣装の衛生兵は「エヴゾネス」と呼ばれ、1時間1回程度の 間隔で交代式が披露され、兵士達とのツーショット撮影もOKなので、 旅行者達の絶好のシャッターチャンス時間となり、時間毎に 多くの人だかりが形成されている。


無名戦士の墓 無名戦士の墓




   衛生兵は ここ1ヶ所だけでなく、色んな通りに行進したり交代したり している。国立庭園という開放公園の周りに沢山いるので、 適当にフラフラ歩いていれば、何回か遭遇する。 公園内部は道が複雑なので、入場すると迷う事もあるかもしれない。



エヴゾネス エヴゾネス エヴゾネス エヴゾネス




アカデミー

   シンタグマ広場 からオモニア広場にかけて北方向には、様々な博物館 が建っている。 パネピスティミウ通りには、3つ連続して神殿調の建物が目だって建っている。 それぞれ、南から「アカデミー」「アテネ大学」「国立図書館」 になる。非常に綺麗な建物で、色彩が豊かであり、パルテノン神殿完成当時の在りし 姿を連想させるような外観だ。



アカデミー アテネ大学 国立図書館



    (パネピスティミウ通り) を挟んで、さらに1本奥が「国立歴史博物館」になる。



国立歴史博物館






国立考古学博物館

    (パネピスティミウ通り)を北上したのち、オモニア広場の 1本手前にある(28オクトヴリオス通り)を進むと、 国立考古学博物館がある。


28st 28st


   広い前庭 から、ゆっくりとした歩道が整備され正門に続いている。 イオニア式の柱と、 ギリシャらしい神殿調の正面観になっている。 国内各地から集められた美術品が一斉に並ぶ。 観光客のほか、教育の一環として地元の小学生達も大勢見学に来ていた。 時間帯によっては、大変混雑するようだが、 私の場合は朝一番で行ったためかガラガラ状態だった。


国立考古学博物館 国立考古学博物館


国立考古学博物館(外観のみです)    アテネ




   深底の壺型の容器に、両サイドに把持手が付いている ものを「アンフォラ」と呼ぶ。 ぶどう酒、オリーブ油の貯蔵や運搬に使った。その他、埋葬壺や投票箱に 使ったりと、かなり一般的に浸透し実務的に使用されてきたようだ。


   対して、平皿状のものは「スキュフォス」 といい、酒をついで飲み干すために使われた。


アンフォラ アンフォラ アクロポリ駅構内のアンフォラ展示 スキュフォス




   近年、地中海で 発見された沈没船が、2500年前の アンフォラ壺を輸送中のギリシャ船だったとして、大変な 話題になった。この ドキュメンタリー映像は、ナショナルジオグラフィック でも有名になった。『古代ギリシャの難破船』というタイトルの DVDが出ている。



難破船から引揚げられたアンフォラ 難破船から引揚げられたアンフォラ 難破船から引揚げられたアンフォラ


   アスクレーピオスは、医の神だ。 蛇の巻き付いた杖「アスクレーピオスの杖」は、現在、世界各国の医療機関の ロゴに使われている。


アスクレーピオス アスクレーピオス


   ボクシングをする子供達は、前1500年前の サントリーニ島の爆発で灰に埋もれたアクロティリ遺跡から出てきたものだ。


ボクシングをする子供達 ボクシングをする子供達


   青銅の発明と普及により、美術品も繊細で ダイナミックな構図が可能になった。 写実性や人体の動きを追求した 古典期からヘレニズム期にかけては、そうしたギリシャ芸術 の隆盛期にあたる。「青銅ポセイドン像」や、「馬に乗る少年」あたりが有名。


青銅ポセイドン像 青銅ポセイドン像 馬に乗る少年 馬に乗る少年


   当館のハイライトが、1F中央路に並べられた 「ミケーネ遺跡の黄金出土品」コーナーだ。 「アガメムノンのマスク」はドイツの考古学者 ハインリッヒ・シュリーマンによって発見された。 伝説と考えられてきたトロイの遺跡を実証し、 叙事詩「イリアス」が事実譚であったことを証明した男だ。 彼のギリシャでの住居は、現在、貨幣博物館として開放され アテネ観光名所の一つとなっている。


アガメムノンのマスク ミケーネ遺跡の黄金出土品 ミケーネ遺跡の黄金出土品 ミケーネ遺跡の黄金出土品





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