古代アゴラアゴラとは、ギリシャ語で市場を示す言葉だ。 古来、買い物は男達の仕事であったという。一般に広場として 使用され、市民達が政治議論に熱弁をふるったり 、演劇場や見世物小屋が並んでいた、いわば文化の集合地帯 であった。ポリス「アテネ」の玄関口 としてアクロポリスの丘に 通じるこの交通路に、市民数の増加に合わせ様々な施設が 増築されていった。日本で言えば浅草や 江戸前の様な下町的な位置にあたるだろう。現在アゴラの観光は、「古代アゴラ」と、「ローマンアゴラ」に 分けられている。このうち、 保存状態の良い神殿として 是非、見ておきたい『ヘファイストス神殿』があるのが古代アゴラの方だ。 付近は近年まで民家の立ち並ぶ区域で、地中に埋もれた遺跡も多かったために、 1930年代の発掘が始まるのを機に、300世帯が別所へと 移転させられたという経緯をもつ。 |
こちら地下鉄のアクセスで言えば、北のモナスティラキ駅、または 更に西に1つ行ったテセイオン駅が最寄駅になる。 2つのアゴラ遺跡は隣り合っているので、その後の2間は徒歩で移動すれば いいだろう。モナスティラキ駅 前にはアドリアヌス図書館と、また テセイオン駅の近くにはケラミコスの遺跡もあるので、 アクロポリスチケット1枚分で3〜4遺跡セットで 観光することが多い。 |
古代アゴラ内の、 ヘファイストス神殿は小振りな神殿であるが、それでも頭が 一つ分突き出て遠くからでも良く見える。 フラフラ歩いていても自然に足がそちらの方へ向いてしまう魅力がある。 |
東西32×南北14m、というからパルテノン神殿の 1/2尺、面積は1/4の大きさである。グルリと1周見ても 2〜3分程度の時間しか掛からない。 庭木の花や植木と調和した、 とても可愛らしい神殿という印象だ。パルテノン神殿とほぼ同時期の施工(前460〜415年 に完成)である。 内部には、 鍛冶の神ヘファイストスの青銅製の神像が奉納してあったといわれている。 |
裏門にあたる西部の屋根は崩壊しているが、 東正面から中央辺りまでは屋根が残っている。素晴らしい 保存具合だ。内周のフリーズも綺麗に残っている。 |
フリーズの柄は、(東)テセウスやケンタウロスの闘い、 (西)ラピタイ族とケンタウロスの闘い、になる。 |
柱は典型的なドーリス式だが条の喪失が大きい部分もあった。 中央のドーム天井とは、中世に教会として利用された為の改築 の遺構である。 結果として、この後付け建築が骨組みの基礎材的役割を果たし、 地震や他の自然災害にも耐えうる強度を補い、今日まで その神々しい姿を保持できたのだと言われている。 |
ヘファイストス神殿の南寄りの施設が『ストア』と呼ばれ、市場があった場所だ。 幅17mの長さ147mの屋根付きの母屋があったが、 現在は石柱の並びが 確認出来るのみである。 |
ストアの脇は博物館になっている。アタロス柱廊博物館 と呼ばれ、1930年代の発掘で完全形で 再現された建物であり、側面には 長さ116×幅20mの敷地に等間隔でイオニア式柱列が並ぶ 。内部には、アゴラ発掘時に 出土した様々な展示品が置かれている。 |
テミス:法の女神。ウラノスとガイアの娘で、ゼウスの二度目の妻。 また、予言の女神で、デルフォイに神託所をもち、アポロンにその術を授けた。 |
ローマンアゴラ |
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ローマンアゴラは、時代下ってローマ時代初期(前1〜紀元2世紀頃) に中心となったアゴラの遺跡だ。 敷地が長方形で、それに沿った周囲のコの字型道路には タベルナやレストランが集中してる。この地区は、 夜中まで賑やかな雰囲気の一画になっている。 |
入口に建つ門は、前11年の創建で柱はドーリス式になっている。 |
柱ばかり遺構の奥に、 八角形の建物が聳えている。本史跡で最大のウリである『風の塔』だ。 |
創建は前1世紀頃。 天文学者のアンドロニコスが作った高経12mの大理石の塔で、各面8面に対し 風の神8人が掘り込んである。 天文観測と同時に 気象観測塔であり、塔頂部には トリトン (ポセイドンの子供で海の王子)のデザインで作られた青銅製の 風見鶏が立っていた。 これが風向きに対応してクルクル廻りながら、 トリトンが向いた先のデザインの風の神 が、その時の天気情報を示す仕組みになっていた。 |
また 内部はその昔、水時計が設置されていた。現在は、覗いて みても工事関係の足場があるのみだ。 |
この頃、顕著に発達したのがこの様な科学力 を応用した建築だ。 古典期に絶頂を迎えたギリシャの国威は、 その後、紆余曲折もあったが何とか都市機能も果しながらも、国際舞台の 一線では活躍と発言力を保っていた。それが、 アレキサンドロス大王の急逝によって、決定的な終焉を迎えた。 残念ながら、あれ程に高度に進化していた世界初の民主制政治 や、世界の中心としての立ち位置に輝いていたアテネ(市民は自分以外の辺境の人間を バルバロイ=野蛮人とよんでいた)が、 その後、世界史の表舞台に踊り出ることは二度と無かった。 代わりに、後世の ギリシャに華開くのが科学や数学だ。古代ギリシャの数学の始まりは、 ピタゴラス〜プラトン〜ユークリッドに体系されるかたちで 継承され、前300年くらいの『原論』をもって、ひとつの区切り とされている。 当時の気風として、 これらの数学や学問というのは高学識者達の「机上の戯れ」であり、 実社会でその理論を応用することは卑下されるべき行為だと看做されていた。 ちょうど、その古からの保守的な 理想から脱却していく一つの区切りの時代の、ヘレニズムが開始される初期に 活躍していくのがアルキメデスだ。 彼は、既存の学問としてだけの 数学の堅苦しさを棄て、 自然科学の原理を積極的に取り入れた 様々な工具や応用日常品、そして兵器をも開発していった。 「アルキメデスの揚水機」は水を汲み上げの容易化に成功した。 「てこの原理」を発見して、地球を持ち上げてみせる、と嘯いた。 また 、ポエニ戦争の際に巨大レンズを3枚使った観音扉式の太陽光集積器のような兵器を 開発し、それを 塔の上に設置し巧みに操り、遥か遠くのローマ軍の戦艦を 焼き討ちにしたとも伝えられている。 アルキメデスの理論を応用した 科学テクノロジーは、現代に使われる日常品の中にも広く浸透しており、その 発見と開墾の成功は、計らずも天才の冠に相応しい人物だと 言えるだろう。 アルキメデスはシチリアのシュラクサイで生まれている。 ある時、王が装飾細工職人に金の冠を作らせたところ銀を混入している疑いが出たので、 アルキメデスに欺瞞の追及を依頼した。 『アルキメデスの黄金の冠』の一節である。 思慮に耽り悩みに悩み抜いた 彼は、おもむろに 湯船に浸かった瞬間に、自分の体積と同等量の湯が桶から溢れ出る事に、 閃いた。つまり、同重量の純金と純銀を、湯に沈めて異なる体積量から、 混成の疑いがある王冠の(金):(銀)の比率を割り出すことが可能なのだと。 |
この時の、『ΕΥΡΗΚΑ!ΕΥΡΗΚΑ!(ユーレカ、ユーレカ)』 やったぞ、やったぞ!ついに発見したぞ!と、歓喜のあまり 着物も忘れ雄叫びを発しながら 素っ裸で道路を駆け抜けた、というのは有名な逸話だ。 アルキメデスの行動は、その死を迎える瞬間も劇的だった。 都市シュラクサイは、アルキメデスの開発兵器でローマ軍を何とか体よく凌いで いたが、2年の攻防の末、街で行われていた宴会の 夜陰に乗じたローマ軍の突然の奇襲により 、遂に陥落してしまった。この時、アルキメデスは 大量の敵兵がなだれ込む間際にも、庭先で数学の研究に没頭していた。 当時、パピルス等の紙媒体は貴重品であり、 エジプトで神記や公文書等で使われる以外は、 手に入らない高級品だった。彼らの計算用紙は砂地の地 面であり、鉛筆は木の棒と石ころが代用であった。 屈強な兵士が三角四角の図面の前で熱中している老翁の前まで来た時、 文字通り、軍靴により幾何学図面は無残に蹂躙された。無遠慮な 兵士の足跡で崩された目の前の 図形を前に、75歳のアルキメデスは烈火の如く激高したという。 『何してんだ、オメーだす!』 「なんだ〜、このジジイは〜〜〜〜!?」 一喝の後、兵士は剣を抜いて一刀に切り殺して しまったという。前212年のことであった。この話を聞いた将軍マルケルスは、 彼の死を悼み 生前行っていたアルキメデスの 研究の成果を墓標に刻んであげたという。「球の体積、表面積は、その外接円柱の 2/3である」という法則の図面だった。 |
ハドリアヌスの図書館 |
地下鉄「モナスティラキ駅」の 外に出ると直ぐ目の前にあるので、一番目につきやすい。 コリントス式柱が並んだ外観で、ローマ皇帝のハドリアヌス によって2世紀頃に築かれたものだ。完成当時は二階屋根の 母屋であったようだ。その後、中世には脇に教会が建てられた時代もあった 。 |
ケラミコスの遺跡地下鉄『テセイオン駅』から西方向には、 ケラミコスの遺跡が広がっている。施設入口は、歩行者天国になっている大通り 沿いにあり、テセイオン駅から歩いて10程度の距離だ。特に迷うことなく辿り着き 入口でアクロポリスチケットを提示すると、堂々とした体躯のおばちゃん職員が、 私を見るなり 出迎え一番に大声で挨拶してくれた。 『カリメーラ!』 「かっ、かっ、かかか・・かり、かり、かり・・・」 返事も終わらずに、太陽の様な輝く笑顔で続ける。 『よく、きたねぇ。もうこの時間、 併設博物館は閉館しちまったけど、まあ、ゆっくりしておいき!』 彼女はポンッと私の肩を叩き、 恰幅の良い体型を揺らしながら奥の事務室に消えていった。本当に ギリシャ人というのは、老若男女、気のいい人ばかりだ。 古き歴史から存続して、ギリシャ人は訪問者をもてなす習慣が 伝統的に備わっているのだという。 |
「ケラミコス」のはじまりは古く、前3000年近く前から既に墓地と して使用されてきた。また、周辺地区に 陶工が多く住んでいた時期もあることから、後世「セラミック」 の語源にもなった土地でもある。 |
「Street of Tombs」という、当時、 行政により整備された大掛かりな墓道があって、様々な墓標が建てられた。 埋葬された人物は 前5〜4世紀の古典期を支えた著名人が多い。 ペリクレスもここに葬られた。 結果的には、ペリクレスの蒔いた種で開戦の火蓋が切られた ペロポネソス戦争はスパルタ側の勝利に終わり、その後、周辺のポリスが 結束して反スパルタの戦争をおこした。これが、コリントス戦争だ。 この時のアテネ軍の兵士の戦死を描いた墓標が 「デクシレオスの墓標」で、Street of Tombsに建てられた。 現在、 屋外に建てられている ものはレプリカで、本物は併設博物館に展示してある。 |
またケラミコスは、ポリス「アテネ」における数々の施設へ続く交通の要所であり、 北西に1600m ほどの位置にはプラトンのアカデミーがあった。アカデミーへ続く 坂の入口として、 小さな門「ディピュロンの門」が残っている。 |
ケラミコス遺跡を東西に貫く様に 小さな用水路「Eridanos River」が横断しており、それと合流する形で アゴラに続く大通りが追従して、さらに アクロポリスの丘の麓まで延びていた。現在、ケラミコス遺跡 の広い敷地東側には、この川に 架けられていた小さな橋や道標が残っている。 |
遺跡の 発掘は19世紀末 から始まり、現在まで発見された出土品は入口付近の博物館に展示されている。 主に、Street of Tomsからの発見が多数を占めている。 |
見学を終えて門の前まで来ると、重たい鉄柵が 架けられている。さっきの愛想の良いおばちゃん職員も居ない。 終了間際に入場したのもで、運営側が全ての観光客が退場 したものと思い、ゲートを閉じてしまったようだ。 過去、 観光施設に入場できなかった事はあるが、 施設内に閉じ込められたのは初めての体験だ。 辺りを ウロウロしていると小太りのオッサン職員が出現して、私を見つけるなり 独り言をいい、ゲートの鍵をアンロックして重たい黒柵を左方向に半分ほどズラした。 『なんや、まだおったんかいな。じゃあの』 何とか 無事に外に出られたようだ。 日はまだ高いが、施設によっては半日区分で営業を終了してしまう場所もある ので注意が必要だ。帰路に至る テセイオン駅方向に踵を返しテクテク歩いていると、さきほどの門の前で人の声が聞こえる。 振り返ればリュックを背負った女の子が、改めて厳重に閉ざされたゲートの前で、 独り困惑顔で慟哭している。私のほかにも同じ境遇の人間がいたようだった。 |