エレクティオンエレクティオンの6体の女性像を「カリアティード」と呼ぶ。 柱そのものが少女の立像なのだから、何だかとても芸術的だ。 頭上の籠に入れられた捧げ物を運ぶ少女達の像であり 、それぞれ高経は2,3mある。もっとも、現在飾られているカリアティードはレプリカであり、 本物は新アクロポリス博物館に展示してある。運営側の意向で 3階建ての吹き抜け階段部における2Fにズラリと並べ、上から下からと 色んな方向から少女群像を観賞できる配置展示になっている。 |
現在の展示本数は5体である。6体あったうちの1体は、一番保存 状態の良い個体であったが、 エルギンが1803年に切り取って、英国に持ち去っている。当時、エレクティオン 本殿には天井崩落を抑える為に、 1体分の空隙に木棒が がつっかえ棒のように添え置きされ、あまりの見苦しさにアテネ市民達 が暴動を 起したといわれている。 |
エルギンはパルテノン神殿のメトープやフリーズ以上に、 このカリアティードの収集にも熱を上げていたようだ。 大理石の1本彫りであり相応の重量が出るため、彼は英国 海軍に軍艦をピレウス港に遣わせるよう 画策している。異常な熱病に浮かされる程に、この少女石柱は 美しく見えたに違いない。 ギリシャ美術として、 古典期以前はアンフォラに描かれた絵画や彫刻についても、動きに乏しい立位 の単純像であった。それが、アルカイック期に人の動きや人面の表情 (アルカイックスマイルなど)を 豊かに出し、より写実性を追求しだした。 さらに、芸術性が煮詰まった 時期が、このカリアティードや数々の有名彫刻を生み出した古典期である。 複数人の 構図なら左右対称に人が配置され、手足の曲げ具合と空隙や比率の 関係も考慮しつつ、同時に動きもダイナミックに仕組まれていった。 カリアティードの場合も、対になった少女隊が 同時に足を腿から上げて、正に歩き始めようとする瞬間モーション であり、上下左右のどの方向から眺めても、 美しいバランスを備えた造型で6体揃え立てられて制作された。 |
その後に古典期の美術を発展させ、さらに東西の融合を 経た美術期がヘレニズム期と呼ばれ、究極形が 「ミロのビーナス」という作品で代表される。 顔の大きさと背面の傾け具合の バランス、身体のねじり方 など、いわゆる黄金比に倣っているという。 当時、題目として黄金比という概念は無かったももの 、製作者が潜在的に古代ギリシャ由来から受け継いだバランス 尺度を踏襲して彫刻を作製したのであれば、黄金比自体がギリシャ的構図の其の物である と言えなくもない。 この時期、ビーナス作品はアテナ以上に沢山作られ、後の世にも 彫刻や絵画等、様々な分野に影響を与えて続けている。 |
母屋の柱は典型的なイオニア式である。 ドーリス式に比べ細長い為に、加重負荷に対する抗力は薄く、より 装飾性の強い華やかな印象を与える用途として用いられる 傾向にある。 |
東面からみると、かなり女性的な面観に見えた。 こちらは「アテナ女神の祭壇」と呼ばれている。 柱の高経は6,5mある。内部には、木製のアテナ像が奉納された と伝えられている。 |
一方、屋根付きの出っ張りがある北面が正門にあたる。 天井の一角に穴が開いているが、これはアテナとポセイドンがポリスの 守護神の座を賭けて闘った際に、ポセイドンが三叉の鉾を大地に刺した際に 泉が湧き出たので、聖なる場所として何時も光を射すようにとの意図で、故意的に 開けられたままになっている。 |
エレクティオンは、 パルテノン神殿完成後に施工が開始された。 フィロクレスの命によって 前421年に始まり、ペロポネソス戦争に突入したアテネの経済的 逼迫の中で、何回か工事は中断された経緯をたどり、最終的には前407年に完成した。 ローマ時代の遺構とは別にして、 ギリシャ由来の神々を飾る 丘上の建築物の中では、一番最後に建てられたものになる。 他の神殿に比べ、若干複雑な形態をしているのは、 複数の神(アテナ、ゼウス、ポセイドン等)を合祀した為だといわれている。 |
ニケの神殿「考古学」という名称は、古典ギリシャ語からきているそうだ。しかし、 過去を研究するのに 発掘に伴う美術品 の略奪や破壊に至れば、それは本末転倒なことである。 もともとシュリーマンにしてもカーナボン卿にしても、考古学 の名目の上に 眠る財宝の発見という意図が、その 行動の根底にあっただろう。移りゆく 時代の背景として、 列強の思惑は被支配国に憂慮の暇を与えさせなかった。残念ながら現在まで、アクロポリスの丘における多くの遺構が 様々な要因で 破壊されてきた。その中で 、唯一プラス方向に向いた考古学の勝利、といえるのが ニケの神殿の再建だといわれている。 |
オスマントルコの支配が終了し、 ドイツから国王を迎え何とか独立を勝ち取ったギリシャ であったが、アクロポリスの丘はトルコ軍の占領で ひどく様変わりしていた。正門にあたるプロピュライアの 左手には、当時、防衛のための砲台が構えていた。 古典期における完成は前424年とあり、古代より ニケの神殿は既知の存在であったので 砲台を除去し土を掘り起こしてみると、実際、石材の破壊の無い ほぼ完全な状態の神殿が眠っていた。さらに、 柱の上に1周分26mのグルリと廻るフリーズも、ほぼ完全体で発掘された。 |
早速、組み立て本来の場所であるプロピュライア の脇に復元をしたのだが、今度は 上端のフリーズがエルギンによって英国に持ち去られた。現在のフリーズは、 レプリカである。内容は、ペルシャ戦争の一幕を彫ったもので、 アテネ市民がペルシャ軍に危害を加えられているデザインだ。ポリス「アテネ」 の強い自尊心と気概がうかがえる。 |
南北に5.5×東西に8.5mと、実際にニケの神殿本堂を目の前にすると、 とても可愛らしい印象を受ける。柱は 典型的なイオニア式で、高経は4.6mあり前後に4本づつ配置されている。切立った 壁の片隅に造られ、内部に木造のニケ像が安置されていた。 ニケは、アテナの従神で勝利を呼ぶ神である。翼がはえた小鳥の様な 姿で、羽をはばたかせアテナの 手の上から勝利者に杯を運ぶのが役目だ。ニケの神殿の本尊の有名な逸話として、 ここに安置された木像には翼が無かったという。いつまでも手元において、 勝利を逃がさないように、というアテネ市民達の思惑が込められていたのだという。 |
ニケの名前に肖った会社名が靴メーカー『ナイキ』だ。 ロゴのデザインは翼を模したものである。 ニケの彫刻も沢山つくられた。綺麗な状態で 翼が残っている個体としては、「サモトラケのニケ像」が有名だ。 この頁の写真のものではないが、 現在はフランスルーブル美術館が所蔵 (※サモトラケのニケ像、で画像検索すれば出てくる) しており、ミロのビーナスと 共にギリシャ展示ブースの人気体の1つに数えられている。 |
プロピュライアニケ神殿の反対側の出っ張り建物は、 「ピナコテク」と呼ばれている。ここは、絵画や美術品を保管する場所だった。 ピネコテクを含め中央開口した正門を 総合して『プロピュライア』と呼ぶ。総合的な完成期は前432年のことだ。ピナコテクの手前の塔が、アグリッパ記念碑である。 アグリッパは アウグストゥスの娘婿であり、当時は騎乗した青銅製の像が建っていた といわれている。高経は9mある。 |
プロピュライアもドーリス式の柱であるが、 母屋内部の3本×両脇=6本分はイオニア式の列柱であった。 正面の西面と、同様配列の東面に並ぶドーリス式柱も 、パルテノン同様に柱の間隔に差異を設けてある。最中央部が 3,8m、その両脇が2,0m、一番外側が1,8mと段々に狭くなる 構造だ。目の錯覚補正よりも実務的な設計であるとされている。 |
中央は、荷車や多くの人が通れるようにと広く間をとり 、両脇は排水溝および 奉納用の動物の通路として使ったようだ。 |
プロピュライアの南、ちょうどニケの神殿の裏辺りが、 『アルテミスの神域』と呼ばれる場所で、 木造の聖堂が建っていた。さらに、東に伸びる位置に『カルコシキ』と呼ばれる アテナの神器を保管しておく建物があった。 |
その他の建物丘上の一番東方は展望台になっている。ギリシャ国旗が風に靡いて 気持ちよい。景観も素晴らしく、東面を全体で見渡せる。 |
リカヴィトスの丘〜 ゼウス神殿と奥にパナティナイコ・スタジアムが見え、格好の写真撮影スポットに なっている。 |
そのすぐ南が、旧アクロポリス博物館になる。丘の平面より 一段下がって母屋が作られてたのは、下から見上げた際に景観を損ねない ようにと、かつて地面を掘って建てられた経緯があるからだ。 09年より丘の下にある新アクロポリス博物館に展示品を移動させてあり、現在、 旧館は脇の トイレ以外使用されていない。 |
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