パルテノン神殿誕生の歴史確認できるアテネのアクロポリスの丘での 人類の痕跡は、紀元前13世紀頃 まで遡ることができるという。当時はミケーネ文明もすでに廃れており、ギリシャ本土はドーリ ア人の侵入や民族間の抗争と 、それに伴うポリスの形成と城塞の建築がさかんに行われ始めていた。 どのポリスも、軍事防衛的な目的から丘陵や山の斜面を立地に選んでいた。ポリス「アテネ」にあったアクロポリスの丘の場合、まず、石灰岩の丘の周囲を石積で 囲い敵の侵入を防いだ。高経150mの丘を登る入口は、西方向からの1ヶ所に絞り 難攻不落な基礎地盤を固めた。 その後、特殊な立地により丘そのものが聖地として信仰されはじめる。 古代のギリシャ人は、水辺や山頂や巨木には神が宿ると信じ、祠を造って供え物を 捧げるようになっていた。そして、ギリシャにおける古代建築の1つの単位として、「メガロン」と いう考え方がある。 |
@:『メガロン』である。 元々は、古代ギリシャ人達の住居の間取りを単位化したものをいい、 生活空間としての用途 が始まりだった。 一室だけの方形 のもので入口が一つあり、実際は簡素な木造でできていた。 A:玄関を作る目的で壁を延長する。 B:その後、 初の神殿形式が誕生する。2本の柱を有し、部屋は神室(ナオス)と呼ばれ偶像を 安置し、玄関部では香を焚いたり家畜を生贄にする前庭を設けるようになった。 この頃になると、素材もレンガや石材を使うようになり、この柱を構えたメガロンを 『アンティス式神殿』と呼んだ。この神殿形式上の最古の例は、前8世紀頃だとされている。 |
C:その後、多数人の集会や祈りを捧げるのに広域スペースを確保する必要 があり、また、 荘厳で厳粛な雰囲気を醸成させるため、柱を全面に出すようになる。この神殿形式は 『プロティウロス』と呼ばれる。 D:ナオスには出入り口の1ヶ所しか光が射し込まないので、 太陽光を供給する為に、後壁を開けた。この方式は『二重アンティス神殿』という。 E:Cの亜種で、前後に柱を配置し『アムフィプロティウロス』と呼ばれる。 ニケの神殿。 |
F:『ペリプテロス』と呼べれる完成型。柱で周囲を囲むことによって、 どの方位から見ても、柱と 母屋の間に空間が形成され、より荘厳な雰囲気を演出させている。 さらに、 建築材料は石灰岩や大理石を用いるようになり、建物を 巨大化させることに成功した結果、柱には装飾を、三角屋根の軒下と梁部には 彫刻石板を 掲げることが可能になり、 芸術性も増した。以降の時代にも、「神殿」と云えばこの形式を踏襲した ものになる。オリンピアのゼウス神殿。 G:ペリプテロス形式で、ナオスを2部屋に分けている。 パルテノン神殿。 |
アクロポリスの丘は、現状のパルテノン神殿が建築される前にも 神殿が建っていた。この古パルテノン神殿は、第二次 ペルシア戦争(前480〜449)の際に、ペルシア軍のアテネ占領により破壊された。 焼き討ちにより、旧神殿内部からは紅蓮の炎が上がったという。 徹底的に破壊された古パルテノン神殿の跡地に、今までに無い 規格外スケールの大神殿を建設しようと思い立ったのが、 当時のポリス「アテネ」の市長であったペリクレスという男 だ。前447年〜前432年の15年の歳月を費やし、総工費は現在の価値で 1200〜1800億円ほどかかったと言われている 。彼は、デロス連盟により周囲のポリスから 貢租を得て潤っていたアテネ市の公庫から、金を惜しみなく神殿建設に使った。 当時のアテネは文化や国威の中心であったにせよ、2500年前のはなしであり、人口 も多いとはいえアテネに限れば7万人程度であったと言われている 。その規模で、しかも短期間に現代まで残る 大神殿を建てたのだから、それは大事業であったのは間違いない。 |
主材料であった 大理石は、ペンテリコン山から切り出してきた。アッティカ地方の地形をつくる原型 山脈であり、アテネから北東に15kmほどにある。非常に上質な大理石の産地のようで、鉄分 を多く含むため輝きが増すのだという。アッティカ地方の散在する神殿の多くが ペンテリコン産である。 他にはディルフィにも石切り場があったようだ。 巨石の運搬について追求を試みてみたところ、 四輪または六輪の木製荷車の上に 乗せ牛60〜80頭で引かせていた、と推測されているようだ。 輪切り円柱は、それでも1つ5〜10t程度であるが、梁部の石材に至っては長方形 1ブロックで 15t 近くの重量になる。これについては、石材両端に大型車輪を左右に包み込む様に はめ込むんで、同様に多頭の牛や馬で引いた、と考えられている。 それでも、パルテノン神殿のアンキトラブ(柱の直ぐ上の梁)は長径 4,3×1,4mと尺も巨大であるため、吊り上げ作業の 便宜上か3枚に割って並べてある。アンキトラブの3枚 の各厚み、これにも55〜65cmから5cm区切りで 微妙に差異を出している。 |
外周の柱は典型的なドーリス式で(ナオス内部 の柱はイオニア 式であったらしい、)輪切り状の石材を10〜11コ積み重ねる施工になる。 稀に単一切り出しの1本柱を使用した神殿も存在する(モノリートと呼ばれる。 コリントのアポロン神殿。) |
1コの重量はエンタシス 部で10t、柱上方に従い重量も小さくなり一番小さくて5t程度である。 木製の足場を組んで、クレーンを使用したとみられている。側面に取手を残しておいて 縄で引っ掛けウインチで回して吊り上げた。接合は、 中央の窪みに木製のピンを打ち込み固定した。 |
驚くべきは、その接合部の精度だ。 石積の大建造物である ピラミッドも、部分々々を 刮目すれば接合面にはセメントやモルタルでの接着剤を 介在した、多少、荒削りな施工で建築されている事がわかる。しかし、パルテノン神殿は、一切の 中間接着材無しの空積み、によってのみで建築が成り立っている。その接合面での 空隙、輪切り石柱間で実に1/20ミリメートル、髪の毛1本刺すことは不可能になっている。 接合面のミクロレベルに均一な平面の作製 ついては、砥石を敷いてドラム体の石材を接合面で ワックス掛けのように回転移動させることで仕上げられていたようだ。 この作業で 色付き砥石の付着具合で凹凸程度が精査できるので、 尖った 凸面を何回も何回も削る取る。 このような繰り返し作業 で、丹念に1コずつ磨き上げられた。 |
パルテノン神殿は、アクロポリスの丘を登ると自動的に 大廻りに東側に誘導される。 西口より1ヶ所開門してりる 『プロピュライアの門』をくぐり、参道からパルテノンの北側面を仰ぎ見ながら 進む行程だ。これは東側が が正門で、本尊と正面と向かい合う位置にあたるからだ。 |
本殿の ナオスを2部屋に分けたうち、東側部屋に本尊 アテナ・パルテノスが鎮座していた。この空間は2階建だったようだ。 ナオス内部を支える柱は、南北側9本、本尊背面の3本、計21本の あった。 裏門に当たる、西側は『処女の間』と言われイオニア式の柱が4本建っており、 この部屋は宝物庫であったらしい。 |
裏門の宝物庫は光を取る窓も無く、入口には分厚い青銅製の 扉が付いていた。文化品や骨董の類の宝物を置くのではでなく、 金や金属の保管、国庫としての扱いであったとされている。同様に、 アテナ・パルテノス像も、それ自体が 純粋に国家財産の一部であった。一説には、使用された1tにも及ぶ金は、 パルテノン神殿2つ半分を施工できるだけの価値を持っていたと言われている。 ローマ時代にコンスタンチノープルで解体されたのは、芸術性より更に 純資産としての価値が高かったからだろう。 |
最終的なパルテノン神殿の完成は、前432年である。史上稀に見る極美の巨大建築物 であるが、対する一般のアテナ市民の住居は木製平屋の質素なものであったという。 しかし、神殿造りの公共事業に はかなり協力的であった。これは、アテナ信奉の成せる業で もあるが、同時に、 デロス連盟由来でかき集めた資金を惜しげもなく流用する是非 を納得させた、 ペリクレスの雄弁さ(西洋では弁の立つ人間をペリクレス風だ、と喩える) とカリスマ性、 同時に彼の 政治手腕を評価する所以もあっての事だろう。 当のペリクレスは、この後、ペロポネソス戦争で篭城作戦を とり、結果、城内にペストが大流行し(市民の1/3が病死したといわれている、) この時に命を落とした。 ディオニソス劇場都市の発展も促進され、人々の生活はペリクレス 在位の頃には絶頂期を迎えていた。この頃の、建築物、哲学、芸術、民主制と 全ての分野において最盛期にあったアテネを、特に「古典期黄金時代50年」と呼 んでいる。 |
もちろん演劇も盛んであった。 ディオニソス劇場のはじまりはパルテノン神殿よりも古く、 既に原型は前6世紀頃にはあったらしい。ギリシャ神話の酒の神 ディオニソス(英:バッカス)の聖地でもある。ギリシャ国内の 劇場の中でも最古の歴史を誇り、 ローマ時代には、増築が 行われ最終的に1万7千人もの収客が可能になった規模になったという。 ペリクレスの時代には、もっぱら悲劇が演じられた。 これは、終演時に勧善懲悪の結末を迎える事で、市民に道徳感性を養わせてた 意図があったといわれている。 |
現在は、中央にモザイク柄の演場があり、それを囲う様に崩れた 扇状の階段があるのみだ。当時は、尻が痛くなるので、観客はクッションを持参したという。 最前列石壇に特等席(ローマ皇帝専用玉座)があり、座ってみたかったが目前に 綱が張ってあり、同時に、職員の目も光っていたので無理であった。 かつての、劇場の雰囲気を味わう程度の見学はできる。 イドロ・アティコス音楽堂一方、隣にあるイドロ・アティコス劇場は、 現在でも演劇が上演され、アテネを代表するイベント会場となっている。元々の歴史は、161年に大富豪であった イドロ・アティコスという人物がアテネ市に寄贈したのがはじまりであるが、 現在の劇場は1951に修復施工されたもので、5千人の観客収容が可能になって いる。 夜、通りかかったら行列ができていた。アクロポリスチケットで の内部入場は不可で、演劇を観賞するには別途料金が発生するが、 丘の上に立つと柵越しに全景が見える。 |
古代ギリシャの演劇とは、エンターテイメント 以上に社会理想の啓蒙や、啓示による秩序の統制という意味合いが強く、 国家により内容や規則が管理されていた。脚本は何回も 更正が重ねられ、完成した原本は公文書館に保存することが義務付けられていた。 そのため、多くの民衆に演劇を見せるため、 国家が入場料金を肩代わりする事もあった。 貧しい者や奴隷身分には 青銅製の特別切符を配布し、後にそれで払い戻しをするというシステム だった。裏に座席番号が書いてあり、入場後はその番号のシートで 観賞が可能であったという。 皆、平等に入場が認められていたが男女は別々のシートで観賞し、 終劇のあとは、民会を開き俳優や合唱隊の出来栄えを審議した。 優秀な者には賞を 授与したという。 |
中央の3つの門が役者の出入りする門で、観客は扇状の中央部分の通路 を結ぶ左右の2つの門から出入場した。 舞台の後方の壁は、幕や塗装板が付けられ、進行具合にあわせ取り付け外し が可能になっていた。扇状の客席と中央仕切り の上には、全体を被せる形で木製屋根が覆い、音響効果を高める設計が 成された。現代における劇場の原型が、古代ギリシャの 時代にほぼ完成していたことになる。 |
これらの劇場と音楽堂の二間は、屋根付きの歩道「エウメネス・ストア」で 結ばれていた。エウメネス王の命により建築されたもので、長さは168mに及んだ。 |
ローマ時代の増設を含め、丘周囲を含む最終的な延べ建築物の最大版図 は、2〜3世紀ころに完成した。 丘の美しさアテネの街の中央部にあるアクロポリス の丘は、どの方位からも見える。 もともとは、アクロポリスとは古代ギリシャ語で 「ポリスの高い場所」を意味している。各ポリスは挙って丘に守護 神を祀る神殿を建て、ちなんだ神像を奉納してきた。 |
アテネにも、大小様々な丘が存在している。 パルテノン神殿が在るアクロポリスの丘に一番近い丘が、 「アレオパゴスの丘」だ。チケット販売所の 道路を挟んだ対面にある。丘と言っても、ほぼ岩山だ。入口に階段が出ており、 現在は展望台としての用途で使われているようだ。 |
元々は軍神アレスの聖域であったが、 古典期には アレオパゴス会議が行われ政治の中枢であった。その後、ローマ後期には学校が、 ビザンツ時代には教会が建てられた経緯もあるが、それも1601年の地震で倒壊して、 今は面影もない。 ここからの丘の景色は非常に綺麗だ。 中世の山城のような洗練さがある。 屹立した城壁が荘厳さを強調している事を 加味すれば、キモンの石積基礎工事はビジュアル的にも 相当大きな効果を上げていると言っていいだろう。 |
※ただ、アレオパゴス丘の上が「非常に」滑りやすい。ツルツルの剥きだし岩に身体を強打すれば 普通の怪我では済みそうもない。尻餅を突けば、尾てい骨が粉砕したんじゃ ないのか、と思うくらいの 激痛を味わう。 |
また、プラーカ地区でも駅周辺は深夜帯でも比較的 安全だが、ひとつ上の丘を廻る周回道路は、地元の暴走族がルーレット走行するので 少々危険かもしれない。 夜景を撮りに行く際は、自衛の為の懐中電灯も持参したほうがいいかもしれない。 |
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