巨匠フェイディアスプロピュライアをくぐり アクロポリスの丘に上がると、本殿のパルテノン神殿が目に飛び込んで来る。 その門と本殿の位置関係に ついて言及すれば、西方向から斜めに仰ぎ見る アングルが初見になるように設計されている。これにより、建物の角を割った 二面がちょうどよく人間の 視界に入り、初めて見る者により誇大的に視覚させる効果がある。 |
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台座状の 丘上は東西270×南北160mの敷地に数個の神殿が並び、 各所は通路で結ばれている。現代の見学路は、ほぼ一方通行の 構成になっていて、南の端にパルテノン神殿が位置している。 神殿の敷地面積は、31×70mの2170平方(約650坪) あり、奈良の大仏殿(875坪)よりやや小さいという規模である。 サラミスの海戦の勝利に湧いた直後の 紀元前447年から、ペロポネソス戦争に突入する直前の前432年にかけて、 15年の歳月を費やして完成をみた。施工に関しては、イクティノスが設計、 カリクラテスが現場監督、そしてフェイディアスの総合指揮のもとで進められた。 フェイディアスはメトープや破風等の美術担当だと言われているが、総合的な 神殿の建築指揮を取っており、一般的には、パルテノン神殿の建築はフェイディアスによるもの である、 とされている。 |
名声の裏付けは、フェイディアスが担当した ギリシャ最高の彫刻芸術と評された パルテノン・フリーズと破風、および92枚のメトープからくる部分も大きいだろう。これらの彫刻石板は 考古学という名の略奪に遭い、現在は大英博物館が所有するに至り、 ギリシャ本国 には少数しか存在していない。ギリシャ側は、何年にも渡り大英博物館に 返還を要求しているが、博物館側は無碍にも突っぱね、この要求は全く果されていない。 加えて、首都アテネの交通渋滞と大気汚染から起因する環境の悪化により、 排気ガスによる汚れと劣化の危惧から、残り少ないメートプや破風でさえ、 新アクロポリス美術館に移動させる措置を取らざるを得なくなった。 |
19世紀初頭のアテネは人口1万人、戸数は1300程度の寂れた 古都扱いであったが、現在はアテネ周辺延べ地区に 300万人近い人口を擁するまでに発展し 、実にギリシャ国民1100万人のうち1/3がアテネ周辺に 集中している事になる。伴う車両排気ガスも凄まじく、時に光化学スモッグの 発生で倒れる人も出現するほどだ。政府は苦肉の策として、ナンバープレート の数字を偶数or奇数で区分けし、曜日ごとに乗車を制限している。 仮に 大英博物館からのエルギン・マーブル返還が可能になったとしても、パルテノン神殿に本物の 石板彫刻が掲げられることは、今後、無いのかのしれない。 |
フェイディアスは元々は画家であったようだ。 父親カルミデスも画家であり、彼自信も青年期は絵画として過ごし、そして 壮年期より彫刻家として名を馳せるようになったという。アテネの守護神は「女神アテナ」 という事になるが、彼はパルテノン神殿の表装彫刻の他に、オリンピアのゼウス像と、そして 名高い3体のアテナ像をつくった。 @(アテナ・パルテノス):パルテノン神殿の本尊。 高経12m、腕や顔の部分には象牙が、衣装と兜と盾には金が使用された。 金だけで実に総量として1tも使用した豪華絢爛な本尊に相応しい巨像だった。 アテナ・パルテノスとは「処女の間」 という総称の意味合いであり、 長らくポリス「アテネ」の守護神として知恵と純潔の象徴、そして民衆の 崇拝の対象であったが、東ローマ時代に至るとアテネの 都市力も衰え、像はコンスタンチノープルに運ばれたのち解体された。 下図の写真は、ローマ時代のアテナ・パルテノス模作である。 ハドリアヌス朝というから2世紀初頭の作品であるので 、造型についてはかなり忠実に再現してあるはずだ。 この像自体の高経は1mあまりの大理石製であり、 1880年にアテネで発掘されたものである。 |
兜は中央突起がスフィンクスであり、右手にかざした背部に翼の生えた小像が「ニケ」 である。ニケはアテナの従神で、勝利を呼び込む神とされている。ちなみに、 ニケの名前に肖った社名を付けたのか、靴メーカー「ナイキ」である。 左手は盾と槍と構えていたが、槍部は紛失している。 盾の表面柄はアマゾンとの闘い(アマゾノマキア)が、内面柄は巨人族との闘い (ギガントマキア)が絵巻されたデザインになっている。 さらに足の脇で大蛇がもがき苦しみ、 首にはメドゥーサの首飾りを備えている。 |
これにも物語がある。ギリシャ神話によれば、美しい髪の持ち主であった ゴルゴンの三姉妹の末っ子メドゥーサが、自分は アテナより美しい、と嘯いてしまった為に、 女神アテナの怒りを買う結果になってしまった。 アテナは彼女の髪を醜い蛇に変え、以後、その あまりの醜さにメドゥーサの姿を見た者は石に成ってしまうようになった 。同時に、それは お守りや魔除けの道具として、首飾りのデザインや神殿の壁画等にも使われ、 次第にギリシャ人の間で流行っていくことになった。 根本的に女神アテナは、その誕生の瞬間から他の神々を凌駕している。アテナは、ゼウスと メティスの間にできた子供だ。メティスの妊娠を告げられた時、ゼウスは 預言者に、「後に生まれてくる子供が知性と力に富み、しいては王位を簒奪するほどの 逸材まで成長するだろう、」と言われ、 メティスを丸呑みにすることで解決してしまった。しかし、その後どうしようもない頭痛 がして、耐え難い次元になってしまった時に、鍛冶の神ヘファイストスに頭をハンマーで 割ってくれと頼んだ。果たして頭がかち割られると、兜と盾と槍で完全武装したアテナが 飛び出したのだという。 |
A(アテナ・プロマコス):アクロポリスの丘にかつて在った アテナ古神殿(エレクティオンの脇辺り)に捧げられた青銅製の像である。 アテナ・プロマコスとは「闘うアテナ」 であり、戦闘状態のアテナを塑像した作品だった。こちらもビサンツ帝国時代に コンスタンチノープルに運ばれ現存していない。 下図の絵画は、ドイツ人のレオ・フォン・クレンツェが描いた 19世紀の絵画であるが、破壊前の古典期からローマ期 にかけてのアクロポリスの情景を‘大よそ’に 再現していると言われて いる。中央の盾と槍で完全武装した立像がアテナ・プロマコスである。 |
造型は連想に値しても、尺度は明らかにおかしいだ ろう。パルテノン神殿より大きく描かれているので、高経は20m近い 巨大青銅立像ということになってしまう(通説では6mほどであったと云われている。) クレンツェ自体は画家ではなく建築家であり、設計の依頼を受けると( サンストベテルブルグのエルミタージュ美術館が彼の作品として有名) ギリシャ風にアレンジしてしまうほどのギリシャかぶれの人間であった。 さらに存命中にアクロポリスの再建を本気で計画している。 なので、この絵画は「こうあって欲しい」という 彼の理想としたアクロポリス像であると看做し、過度の信頼は避けた方がいいかもしれない。 青銅像を建てた台座が、古神殿の 西方面辺りに今でも 在るらしいのだが、現在は、綱が張ってあり内部には入れない。 このため、この痕跡は 確認することはできなかった。目下、丘の上全体は修復工事の真っ只中で、 立ち入り禁止エ リアの方が大きいのが現状だ。 |
綱の張ってある内部エリアは、 大理石の欠片が散乱し業者が忙しそうに働いて、母屋では クレーンが常時稼動している状態だ。この為、本殿に至っては 内部に入るどころか、綱の外から 遠視するのみで観光が終わってしまい、残念であった。 |
B(アテナ・レムニア):フェイディアスの最高傑作といわれている。エーゲ海に 浮かぶ レムノス島 に入植したアテネ人のために作った等身大の像で、造型の美しさから女神アテナの 像としても最も美しく完成度が高かったといわれている。現存はしていない。 |
上記の写真は、ドイツのドレステン美術館にあるアテナ・レムニア の模作である。ローマ時代の模作の、さらに復元(青銅製)で高経は201cmある。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ※(その他のアテナ像):沈黙のアテナ。前450年頃の作品。 作者不明。墓石の前で喪に服しているアテナを彫刻したもの。新 アクロポリス博物館蔵。 |
※(その他のアテナ像):ヴェッレトリのアテナ。クレシラス(前5世紀頃のギリシャの 彫刻家)作で、現在は ルーヴル美術館蔵。 |
※(その他のアテナ像):パラス・アテナ。ミュロン(前5世紀頃のギリシャの 彫刻家)の模作。 |
※(その他のアテナ像):ペルガモンのアテナ。アテナ・パルテノス の模作。作品自体は前180年頃とみられている。現在は、ベルリンの ペルガモン美術館蔵。 |
※(その他のアテナ像):アテナの頭部。ヘルメットは別に作られており、 結合させることで 完成体になっていただろうと推測されている。 アウグストゥス帝時代に造られた模作。現在は、アテネ国立考古学博物館蔵 |
※(その他のアテナ像):アカデミーのアテナ像。シンタグマ広場から オモニア広場へ繋がるパネピスティミウ通りに建つ、アカデミーの 正門にある。イオニア式の柱が2本あり、柱頭に 立っている。反対側はアポロンの像になっている。 建物自体は19世紀のデンマーク建築家、ハンセン兄弟によるもの。 |
錯覚の補正 |
本殿のパルテノン神殿は、外周の柱が南北側に17本、東西側 に8本で、角が共有して総計46本のドーリス式柱で建てられた。 |
パルテノンの柱は、高経が10,43mあるが 配置は等間隔ではない。東西側でいえば、最外側の両柱が僅かに中央寄りに 狭く配置されている。これは、等間隔で配置すると両側柱は、配置上、半分に 背景が広がる為に中央柱より 細く弱々しい印象を出してしまう。これを避けるために、わざと狭めて配置している。 同様に南北側の17本の最両外側も、それに倣う。 更に、柱自体を神殿内部に向かい7cmの傾斜をかけている。 もちろん柱の造型も、独特の規格で統一されている。 1本ずつ柱の力強さを演出させるため、底部より 2/5の位置にエンタシスと呼ばれる膨らみを付けている。パルテノン神殿の場合で いえば、柱頭の直径が1,48mであるのに対し、エンタシスから底部まで にかけては1,9mの豊隆を出している(※方形に並べられた柱46本のうち、 角の4本だけは他に比べ若干太い。)このエンタシスの豊隆は、 柱頭から屋根の巨大な重量を受け止める実効果のほか、 柱間の空隙の広がりから起因する、 柱中央部の狭窄感を拭うための効果も併せ持つ。 東西側面の(柱:基壇)の尺比率が、(1:1.68)の 黄金比に倣っている、とされている。 ただ、この説は底部に対し高経を柱までか、さらに上部体のアルキトラブやメトープ までを含めるかによって実測地 も大きく異なり、解釈が多様にできてしまう為に、後世の人間の後付け理論だとして 現在ではかなり懐疑的である。 基壇に関しては3段の底面で構成されているが、柱の乗る上部 基壇は東西側面で中央に向かい6,5cmの、南北側面で12cmの湾曲凸を付けている。 これも、堂内の水捌けを良くするという実効果と、それ以上に 正確無比な方形で組み立てると中央が窪んで見えてしまう、という 人間の持つ目の錯覚の補正を狙った、故意的な隆起付加でもある。 |
日本風で言うなれば、まさに匠(たくみ)の技が光る、 技巧と技巧を重ねた其の物が一つ究極の芸術品たる、大建築物と言っていいだろう。 現代人が、その仕組み や設計と、さらに付加された補正値の拘りまでを知った時、驚きよりも感動がこみ上げてくる。 古代人の造った ピラミッドやパルテノン神殿が、人々の興味や畏敬の念を引き付けて止まないのは 、こうした隠された設計の実効果が示す部分も大きいだろう。 柱についてパルテノン神殿の柱は、「ドーリス式」とよばれる 装飾性の無い円柱から成る。 ギリシャ神殿の柱には、(ドーリス式)(イオニア式)(コリント式) に大別できる。@(ドーリス式):ギリシャ南部から発生した ドーリス人(ポリス「スパルタ」など)が用いた形態の柱で、条は20本。 底部の台座は無くそのまま基壇から伸び、柱頭部もエキヌスと呼ばれる皿を乗せた 極めてシンプルな構成であり、装飾は一切無い。 一言でいえば、質実剛健と表せることができるだろう。 パルテノン神殿など。 |
A(イオニア式):小アジア(エーゲ海の島々)から発生した。 イオニア人が好んだ柱で、条は24本ある。ドーリス式とほぼ同期の歴史を持っている。 最大の特徴が柱頭装飾で、渦巻き型の螺旋模様を左右に有した冠を 被せる造型を持っている。柱自体も細く優美で あり、ドーリスを男と例えるなら、イオニアは女であると表される。 エレクティオンなど。 |
B(コリント式):柱頭装飾が更に豊かになったもので、アンカサスの葉と蔓が 上方外側に迫り出しているデザインである 。条が24あることから、イオニア式の発展型であるとされている。 更に時間をかけて後世に使用されるようになり、ローマ時代にはギリシャの 美術や建築方式が踏襲されていくが、柱については殆どがこの優雅なコリント式 が用いられるようになった。 ゼウス神殿など。 |
破風とフリーズとメトープについて外周に連なる石板絵図は、この仕事こそが 巨匠フェイディアスの真骨頂であるといえる。 もちろん、彼一人で彫り上げたのではなく、専門の石工と美術担当チームが 総合で仕事を行ったのであるが、 生き生きとしたデザインや、 最終的な調整はフェイディアス自身によるものである事は間違いない。 |
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@: 破風は、簡単に言えば玄関の表札みたいなのもだ。 屋根を載せる三角形の空洞部分に彫られた神々の群像であり、各ポリスに由来する 神の姿を、神殿のこの部分に飾った。ポリス「アテネ」の パルテノン神殿であれば、それはアテナの為の神殿であるから、内容は、 女神アテナを中心としたデザインという事になる。 破風とは、各ポリスが掲げる主義主張のようなものであると言える。 東側(正門)には、アテナ誕生の絵巻。西側(裏門)には、 アテナとポセイドンの闘いが再現された図柄である。 東側角に 「セレネの馬」が復刻されている。 本物は 大英博物館にあり、エルギン・マーブルの中でも最も人気の彫刻なのだという。 東側破風は女神 アテナの誕生という劇的な瞬間であるので、本来であれば中央の 図面にいるはずのアテナが一番人気があって、神々しい姿であっただろうが、 残念ながら正確な図面はわかっていない。 ジャック・カレーのスケッチ にも既に中央のアテナ誕生部分は空白であった。 これは、ビザンツ時代のかなり初期に神殿に光を入れるために、 東側破風の中央に大きな穴が 開けられたためである。 |
(東):一番重要な中央部について不明であるが、 過去からの資料や口承によって想像で補足された デザインを元に、 東破風の全体復刻版が、新アクロポリス博物館に展示してある。 |
(西):西側のデザインは、ポリスの 守護神の座をめぐるポセイドンとアテナの闘い絵巻だ。 |
西側中央、 どちらが相応しい神なのか二神が対峙している。 皆の前で決めてもらおうと、 その有能さを披露している局面になる。 ポセイドンの武器は三叉の鉾。一度、これを海に突き刺せば 大津波が起きて全てを飲み込むという強力なもの。対するアテナは、 その槍で大地を突くとオリーブが生えてくる。 果たして、勝敗はアテナの方に軍配が 上り、この地は、守護神アテナのポリスとして「アテネ」と名付けられた。 |
ギリシャはオリーブが名産の国だ。 エレクティオンの脇には、二神の闘いの際の「聖なるオリーブ」 がある。元々この付近はパルテノン神殿が建つ前から 神聖な場所とされており、ペルシャ戦争で破壊される以前は「アテナ古神殿」 として丘の 中心的なエリアであった。現在は、綱が張ってあり入場できない。 |
西側の破風はかなり後期まで残存していたようだ。 1687年のベネチア軍の砲撃攻撃も運よく回避できたが、占領後、 将軍モロシーニが中央部のポセイドン像を剥離し、地面に降ろそうとした時に 誤って落下させてしまった。これにより、西側破風の中央部分は 木っ端微塵に砕け散った。しかし、既に カレーのスケッチが克明に残っていたので、現代に甦る 復刻版の西側破風は、正確なデザインである。 |
破風部は屋根の軒下の三角部分であり、非常に広域 かつ奥行きのある空間が 可能になっているので、この部分は 石板というよりは彫像をそのまま設置するような造りであった。また、 より立体的に見せるため背景色は青色の塗料だったという説が有力だ。 現在、新アクロポリス博物館は長方形の母屋の3階部分に、1周ぐるりと メトープと破風をパルテノン神殿に倣った配置展示をしている。同時に 全面ガラス張りの 壁越しからアクロポリスの丘を仰ぎ見ることも出来る。 これによって、見学者に構内の視線を重ね合わせることで、恰も 実際にパルテノン神殿に石板が装着されているかのような視覚作用 を起させる、凝った趣向の演出をしている。 |
A:メトープ。これは東西に各14枚、南北に各32枚の 総計92枚を、間にトリグリュフと呼ばれる溝付き石板を介在させ、交互に 並べて配置させてある石板のことで、彫りが深いのが特徴だ。 内面のフリーズより深彫なのは、太陽光線を浴びた時、より立体的に 見せるため効果を狙ったものだといわれている。 |
それぞれの方位面ごとに、並んでいるデザインに 意味合いがある。東が神々と巨人の闘い。西がアマゾン族との闘い。 北がトロイ戦争、南がケンタウロスの闘い、のデザインであったらしい。 現在、図柄は 潰れてよく見えない。状態の良い石板はエルギンによって英国に 持ち去られた。 南面のケンタウロスとラピタイ族の闘いは、 現在、新アクロポリス博物館の3階に展示してある。こちらは本物の ようである。 |
B:トリグリュフは、メトープの間にある溝の付いた デザインの石材である。側面凹が、 メトープとの接面を挟み込む様に喰って介在している。 物理的にはメトープ板の留め石として、また、交互に配置することで メトープ絵巻の筋書きにアクセントを加える要素として用いられている。 C:グッタエ、邦名で露玉という。6つの玉が連なった これは、その昔、神殿が木造であった頃の留め金の名残りで、石材が使用 されるようになっても、装飾として残った部分である。 D:排水口、屋根を流れる雨水が 集積されて、ライオンの口から吐き出される仕組みになっていた。 ライオン排水口はドーリス式柱に特有のもの。古今東西、ライオン は力や権威の象徴で、ここギリシャにあっても同様に、 神殿の門構えや様々な美術品に登場している。 |
フリーズ:外周の上部に掲げられた 石板がメトープと呼ばれるなら、内周の石板が、この「フリーズ」である。 パルテノンの ものは既に壁自体が喪失しており、現在内部は 重機が稼動中なので配置のイメージが難しいが、 下記の右画像のような感じと捉えればわかり易いだろう。こちらは、ヘファイストス神殿 という、ギリシャ国内にあって 最も保存状態が良好な神殿のフリーズになる。この神殿の創建時期は、パルテノンと ほぼ同時期であるが、フリーズ、柱等、かなり綺麗に残っている。 |
フリーズは、トリグリュフによる仕切りがなく、連続 した絵巻になっている。 パルテノン神殿のものは、 実に四面1周で163mもあった。内容は、4年に 1回開催されるアテネパンティアナ祭の様子である。このデザインは 、庶民の生き生きとした生活絵巻であり、活気に満ちた情景が描かれていた。パンティアナ 祭は、ポリス「アテネ」で開催される 体育祭でもあり、神への奉納祭でもあったので、行列には人々のほか大量の 動物や牽引車も登場している。その数は、人間が368人に対し、 馬219、牛14、羊3頭 にものぼる。物理的な特徴としては、全体に彫りが浅い。 状態の良いフリーズの多くが英国所持で、新アクロポリス 博物館に掲げられているのは小片ばかりであり、正直言って、3Fのものを見学して みても 全然、情景が掴めない。 この大英博物館が所持するフリーズを含めた、これら大半の パルテノン神殿彫刻群は、ギリシャ美術の、しいては 古代ヨーロッパ美術の傑作であり、 大英博物館の代名詞的存在でもありえる。エジプト考古学博物館で例えるならツタンカーメンマスク、 ルーブル美術館ならモナリザ、という位置の 有名博物館における目玉的な作品だと言っていい。 事実、大英博物館来館者に対するアンケート集計によれば、 このエルギン・マーブルを肉眼で見る為に博物館を訪れるいう目的履行 が、その半数以上を占めるのだという。運営側としては、この彫刻群をギリシャに返還するのは 道理として当然の行為と認めつつも、もはや博物館の「顔」的な存在に成って しまい、経年的にも簡単には了承できない事情があるという事なのだろう。 キモンの南壁と外周の洞窟群丘の頂上は、軍事要塞として石壁が築かれた のが始まりだとされ、歴史は前13世紀頃まで遡る。 屹立さを備えたおおよその城塞形態は保っていたが、ペルシア戦争の際、 丘周囲の石積城壁も崩されていた。この時、城壁を一 新したのがアテネの将軍キモンである。『キモンの南壁』と呼ばれ、現在まで みられる垂直に切立った防御壁がそれにあたる。 |
無人の丘をペルシャ軍が蹂躙し尽した 第二次ペルシア戦争(前480〜449)時の被害 を補修、さらに増築という事業だが、パルテノン神殿の建築開始(前447年) までには 石積が完成していたので、かなり急ピッチの突貫工事だったのだろう。 |
しかし、 その切立ち具合は、非常に鋭く、上から眺めると防御壁としての 用途をしっかり果していただろう機能性を垣間見る事ができた。丘の上の外周は 腰くらいの高さの出っ張りがグルリと1周巡っている。 手摺も無いので、 観光客はみな、恐る恐る覗き込むように眼下を見下ろす 程度だった。落下すれば間違いなく 死ぬだろう。 |
人工物が築かれる前は、天然の岩山であった。 東面に開いた『アグラウロスの洞窟』は、かなり遠くでもその造型が判る。 外周の穴は奥まで侵入できる様な純粋な洞窟でなく、窪み程度、であるが、 周囲にはアグラウロスの洞窟以外にも 大小含め様々な洞窟が存在している。 こちらの見学は、ディオニソス劇場の 入場口から入る。扇状の劇場は丘下の南に所在しているが、洞窟群は エリアの3/4周グルリと巡っている 歩道から見学することになる。スロープの東から北にかけてのエリアに多数ある。 北側にも入場口があり整備道で繋がっているので、洞窟 見学後、反対から 退場する行程でもいいだろう。 |
アグラウロスの洞窟は、高経22m、 幅は14mと最大で、アクロポリスの丘外周の 洞窟群の中でも一際大きく開口している。 |
中に入ろうと思ったが、工事関係者の柵が張ってあり入場不可能であった。 この入口付近からも、 東西にかけて伸びる道が出ている。ディオニソス劇場の敷地の一段上に位置する 細道で、 「ペリパトス」と呼ばれている。かつてアリストテレスの 学派が歩きながら議論したという、逍遥散歩道が整備された跡らしい。 |
その途中にも、3つの穴がある。 |
3穴は人口削岩のもので、 対面は ディオニソス劇場であることから、ゼウス神像を奉納したものだろうと考えられている。 |
北スロープは、工事業者の 機材搬出用のエレベーターがあったり、人工 濠やトンネルなど、近年に人の手が加えられた部分が多くみられた。 |
北斜面にも、岩の複雑な裂け目を利用した 汎用乗降口が存在していたようだ。 内部道はミケーネの噴水と呼ばれている場所から、段々状態の木製の階段 で丘の頂上と繋がっていた。後世の後付け階段だ。 |
北城壁は 即時的 暫間的な補修の積み重ねによる 経時的産物であり、南壁の屹立さや断絶感に比べ、 全体的に 包括的でチョッと雑な印象を受けた。 |
聖なる洞窟は3つ開いている。北西の城壁角辺り から東に向かい順に「アポロの洞窟」 「ゼウスの洞窟」「パンの洞窟」になる。 このうち、前者の2つは単なる窪みでしかないが、パンの洞窟は 天然の洞窟になっており、奥行きがあり深かった。 |
アポロの洞窟 |
ゼウスの洞窟 |
パンの洞窟 |
パンは、ギリシャ神話における山羊のような姿をした半神だ。 |
ヘルメスとニンフの間の子供で、いつも木陰や洞窟で昼寝をしている。通りががり の者が 誤ってパンを起すと、毛を逆立て恐怖の雄叫びをあげて 騒ぎ立てたのだという。この 行動が、パニックの語源になった。 |
ちなみに、「パンの聖域」も存在する。アクロポリスの丘から 西に位置する、 フィロパポスの丘のアポストル・パヴルウ通り沿いにある。柵越しに見る ことができる。 |
北スロープの果てがディオニソス劇場の北 入場口であり、脇にはニコラス教会が建っていた。 オスマントルコ時代 の遺構で、柱などは当時、イオニア風にアレンジしてあったという。 |
この教会からアクロポリスの西正門にかけては、 オスマン時代増設による塀状の防御壁が連なっていた。結局のところ、 日本城の 天守閣が二重三重の濠や櫓で守られるように、アクロポリスの丘も ドンドン周囲に付加施設が加えられ、 時代と共に様変わりしていったようだ。 |
そのほか、 像を奉納する小さな 壁龕や、極々小さい穴程度のものならば、それこそ無数に存在している。 |
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