生きてる事が功名か


    マリオテーヤ運河沿いを更に、南に下ること20〜30分、カイロからの距離として40 kmの地点にマンシェーヤの交差点がある。ここを右に折れると、ダフシュールの 遺跡群に至る。およそ、人の往来が確認できるのは交差点付近に限られ、より奥まった 行程を進行すれば、見渡す限りの砂漠が広がるのみの景観である。



ダフシュールへ 人々の暮らしは素朴だ



   観光地ではあるものの、施設といえば、ただ砂の更地に境界線 の明記もない駐車場があるだけだ。レストランも土産屋も居ない。



Dahshur Dahshur



最高傑作クフ王の手本であった赤のピラミッド


   実のところ、赤のピラミッドはとんでもなく大きな印象を受ける。 それもそのはず、あの最大を誇るギザの大ピラミッドは、 ここに在る赤のピラミッドを手本として造られた経緯であるとされ、 内部構造や規模に措いて多くの共通点が見られるのである。総計で国内108基ある といわれているピラミッドの中で、内部の部屋が空中に設けられているのは、ギザの 大ピラミッドと赤のピラミッドだけである。



il-Haram il-Ahamar il-Haram il-Hunhani ticket


ダフシュール 赤のピラミッド Dahshur




赤のピラミッド:高さ104m、底辺:218.5m×221.5m、勾配:43度19分。



   クフ王やカフラー王の140m近くの高さに次ぐ、実質 エジプト内でも第3位 の高径を誇る。もっとも、勾配が2つの大ピラミッドに比べ、やや浅いのもあるの が一手遅れる結果なのだが、 根本的な底面の面積はぼぼ2大ピラミッドと互角の大きさであり、 横付けした車はまるで蟻子の様に映る巨大さの印象だった。

   このピラミッドはクフ王の父親にあたるスネフル王のものとされ、 彼は存命中にピラミッドを5基も建造している。結果として、 建設に使用した石材料は全て王の中で トップを極めることになっている。また、 その治世と王権の確立にも大いなる評価がなされ、リビアやヌビア地方に遠征し、金や 宝石の採掘権を奪い、多くの捕虜や牛を戦利として持ち還ったと伝えられている。

   本基は、鉄分を多く含んだ石灰岩で建築されているために 外観が赤っぽく見えるので、赤のピラミッドと呼称されている。アラブ語で イル・ハラム・イル・アフマルだそうである。舌を噛みそうである。 ダフシュールに在る2基のピラミッドをして、方位的に「北のピラミッド」とも呼ばれる ことも多い。 造型の着眼としては、各辺が直線によって成される二等辺三角形の、いわゆる 真正ピラミッドの記念すべき第1号基でもある。



il-Haram il-Ahamar 入場口 入場口



   内部の入場は、北壁より伸びた石階段で可能になっている。地面より28 mとあり、相当な高さだ。入場後は入り口より、ひたすら下る。天井が低い為に身を屈める姿勢 になり手摺にしがみ付きチョビチョビ進む ような感じで、なかなか辛い体勢だ。底面の1辺距離から察するに、50m近くの直回廊になるだろう。 蛍光灯の灯りで繋がれた道内は、外気よりも 冷んやりしている。ギザよりも観光客は少なく、 擦れ違いによる廊内の混雑を避けられた事が、まだ幸いであった。



入口 入場口より北を望む 直回廊 梁


ダフシュール 赤のピラミッド2 Dahshur




   底面に到達すると、やはり合掌造りのような 段状の梁を確認できた。クフ王の大回廊ほどには空間の広がりを見せる事はないものの、 その構造は非常に似ていると言っていい。この側室が2つ連続し、くぐる先の 最終到達地点 に玄室がある。石棺などは無い。 崩れた花崗岩が無造作に転がるのみで終わった。



側室 玄室 側室 梁


ダフシュール 赤のピラミッド3 Dahshur




   赤のピラミッドを退場した後、 ハマダの爺さんが手招きをして、2つのピラミッドが同時に見えるポイント に私を誘導した。「南のピラミッド」は、この地より およそ1kmほどに遠隔立地するが、周囲は遮る物もなく 荒涼たる砂礫のみで、透き通るような青天が更なる明視を可能にしていた。
   両手の親指と人差し指の2指先端を、それぞれ軽く重ね 、たなごころ三角形を目前に示し仰ぎ見ながら言う。


『この三角が赤のピラミッドだとすると・・・』
「ほう」


   私の傍らに立ち、そのままの掌形で平行にスライドさせ、 もう1つのピラミッドの上端部三角形に合わせてみせた。


『どーだい、2つが重なるだろ?』
「見える、見えるぞ!私にも重なって見えるぞ!」
『フォッフォッフォ』



勾配:43度22分 勾配:43度19分



上端勾配は赤のピラミッドと同じ


   不思議な形のピラミッドだ。
屈折ピラミッドは名の通り、末広の際が折れて1辺が屈折した造型を見せている。高径 44m地点を境に上端の勾配は43度22分、 下端の勾配が54度27分になり、上端部に限って言えば 傾斜角度の一致した赤のピラミッドを、そのまま屋根のように 上から乗せている形状である。と言っていい。


屈折ピラミッド:高さ105m、底辺:189m、勾配:43度22分(上)54度27分(下)


   常識的に考えれば、この角度を付ける屈折ピラミッドの途方こそが経過としての 後世の発展形、ニュータイプと思われがちであるが、どうも勝手は違うようである。 どちらもスネフル王が建造した物であるのだが、彼が残した5基の ピラミッドのうち、4番目が屈折、5番目が赤、なのだそうである。

   着手時は、下部の建ち上がり勾配54度で、辺を直線とした二等辺三角形の 真正ピラミッドを予定していた。しかし、 製作途中で慮外事象に遭い、已む無く急遽に完成体自体を変更せざるを得なくなる。 以前に完成させていたメイドゥームのピラミッドが崩壊したのだ。

    メイドゥームのそれは、前王フニが建築を着手したものの完成を果たせず没し、 次王になったスネフルが勾配54度に改装展築し完成させた。つまりは、それに倣った 形状角度で再度新調したかったのだろう。 急勾配で造る事は、天に近付く高さの追求にも成り、同時に 力や畏怖の体現に転じ、また、それを人民に誇示させたかった意図もあったに違いない。 しかし詰まる所、勾配がきつ過ぎ結局崩壊してしまい、建設中の 「南のピラミッド」はこれにより崩壊を事前回避する為に、 上端を緩やかな勾配にして完成させられた、 というのだ。

   安定性の重視からの変遷は、それまでの階段状や、屈折状 からの様式を更に突き詰めた「赤のピラミッド」こそがその完成形で、前様式の屈折状ピラミッド が哭く、俺を踏み台にしたぁ〜!?うえに成り立っている。



屈折ピラミッド 屈折ピラミッド 屈折ピラミッド脇の小墳 屈折角


『どーだい、これがエジプトの歴史の奥深さよ。フォッフォッフォ』


   満足そうな笑みを浮かべ、爺はピラミッド背景に私を含めた 記念写真を数枚代行撮影してくれた。 だが、何といってもピラミッド自体がデカ過ぎて1フレームに収まり切らず、 結局、全体写真として撮影したくなり、1人で 砂漠の中を走り廻るのだった。



辺縁崩壊 entrance entrance


ダフシュール 屈折ピラミッド Dahshur




   ただ、屈折に完成した理由も多種の説が存在するようだ。 スネフル王は第4王朝時代の一番最初の王であった。前王朝時代から 、首都メンフィス界隈より北を指す「上エジプト」と南の「下エジプト」 にそれぞれ墓を作るのが、その統一以来の歴代王のとしての習わしであった。 スネフル王は統一の象徴として、敢えて2つのピラミッドを合体させたような 屈折形を予め設計したのだ、という説だ。実際、このピラミッドは2つの入り口、 2つの通路、2つの玄室があるのだという。それぞれ、地上10m、30mの 位置に開口している。

   また、根本的にメイドゥームのピラミッド崩壊は1000年近く 後世の第18王朝時代だったという説もある。こうなると安定性のマテリアルな問題では なく、より形而上な概念がその真意にあった事になる。

   何よりも、「赤のピラミッド」のあと間も無くに造られた ギザの大ピラミッドは、その勾配をクフ、カフラーと51度、53度にまで上げている。 そして、巨石を230万個も積み重ねた建造物は、現在まで、その自重に耐え抜き 4500年もの永きに渡り建ち続けている事実も忘れられない。



entrance 壁面 壁面



   それにしても、サハラは広いなぁ。ぐるりと見渡すものの、そこには 砂塵に煙る地平線しかない。およそ、想像していた‘エジプトらしい’という風景が、 ここには広がっていた。観光として、この地より更に西方に向かうツアーもあるらしい。 オアシスツアーだ。4WDで道無きを驀進するのが常套だが、干上がった大地は時に20 年も雨が降らないという人外境で、エンジントラブル なんかの事態で、本当に命取りになる様なサバイバルなものらしい。 バプレイヤ・オアシス、ダフラ・オアシスあたりが有名なようである。


風の音だけがヒューヒュー鳴ってた。 遠くに爺の呼ぶ声がした。


『はよぅ、戻って来いや〜次のメンフィス行くぞ〜い!』


   再び戻り車に乗り込む。やはり、車窓から見えるのは青空と砂礫の境が 織り成す地平線だけだった。



赤のピラミッド 屈折ピラミッド


ダフシュール Dahshur




M西岸ピラミッド巡りC

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