南へロビーでウロウロしていたボーイにドライバーの紹介を頼んでみた。「サッカーラに行きたいんだけど、ドライバー紹介してくれない?」 『よし分かった。いい奴を紹介してやる。チョッと待ってな』 ボーイは携帯電話で連絡を取りはじめ、程無くして登場したのが ハマダという名の爺さんだった。 交渉を始めれば、零れそうな満面の笑みを浮かべながらの喋り方で、 人懐っこい温和な性格が滲み出ていた。まあ、一見しても 人間性に問題はないだろう 。200£でサッカーラとダフシュール、そしてメンフィスを観光したいと、と話を進めれ れば快諾。早速に車に乗り込む運びとなった。 水色のバンタイプのプジョーだった。もう2,30万キロは走っている であろう古臭さがあったが、年季 の入った車体は逆に彼のドライバーという生業自体が、成功してきた証であり、また 長年の信頼を物語る其の物だろう、とも理解できた。 前面のダッシュボードには、日本語で書かれたエジプトのガイドブック、日本の景色が 印刷された手拭いが無造作に置かれている。おそらく、過去にチャーターした 日本人が彼の人柄や、仕事振りに徳化された挙句に、これ等を贈呈した経緯なのではなかろうか。 そんな、想像と期待を抱かせるほどに、この爺さんには人の心を懐柔する魅力があった。 助手席に廻り込もうと数歩進む。私の全身像を確認するや爺さん、心配そうに一言、 『そんな装備で大丈夫か?』 「大丈夫だ、問題ない」 即答した私であったが、気に掛かる一言ではあった。顧みれば爺さんの視線は 全身というよりは足元に落ちている。そうこの時、私はサンダルを履いていのだ。 どうせ砂漠なのだ ろう、砂や小石が靴の中に入って汚れるくらいならサンダルでいいだろう。と合点し、敢えて 運動靴を身軽なサンダルに履き替えていたのだ。 気転を利かせた判断のつもりだったが、しかし助言に従い 再度10階まで戻り、運動靴で再来する のも億劫であった。ただ、それだけの理由で、この時は、 このまま出発する結果になった。 |
サッカーラ遺跡への行程はマリオテーヤ運河を左手に仰ぎ、 そのまま幹線路を真南にひたすら直進すればいい。およそ遮る物もなく、 走行車も滅多に見ることはない。そして、何よりも車道に信号器という物が存在しない。 「爺さん、幾つになるねぇ?」 『ワシゃー、65になるぞい。フォッフォッフォ』 まだまだ若い者には負けんわい。と、ばかりにアクセルを目一杯踏み込む。 とんでもない速度過多だ。一般道なのに常時100キロは出ているだろう。全く元気な爺だ。 しばらくすると、車は道路を右に折れた。ギザからは20〜30km くらいの距離だろうか、随分と景観や雰囲気が変ってきているのが 見て取れる。サッカーラ村だ。カイロやギザなどの 都市部に比べると町並みも人も素朴な印象を受ける。 遺跡観光には、 入り口のゲートを車に乗車したまま潜り入場する。 当地もエリア内は広く、 階段ピラミッドを軸とした総合複合体、いわゆるピラミッドコンプレックス 形式にあたる。550×240m方形の敷地を舗装された車道が囲み、 付近に施設や小墳、史跡が点在するので、移動には車があるほうが便利だ。 最初に観光するのは、入り口付近のイムホテプ博物館 になるだろう。 |
この博物館は、サッカーラ遺跡で出土した様々な 副葬品を展示してある。2006年に開館とあり、とても立派な建物だ。 照明を落とし、ライトを当てる演出も凝っていて良い雰囲気だ。 館内は中央の大間と 三方にそれぞれ小部屋があり、各部屋には好きな順で見学して廻れるように なっている。見学時間にして 10分くらい。 |
ピラミッド建設という偉業の礎サッカーラ遺跡の主たる観光は階段ピラミッドになるだろう。 文字通りの荒削りな外観が示す、その歴史の背景はまた、 記念すべきピラミッド建築の第1号となるという、 偉業の礎でもある。 紀元前2650年に築造されたとある。ギザ3大ピラミッド 完成の約100年前になる。 当時ジェセル王が、 安定していなかった国内情勢を憂い、その支配の盤石を強固にする意図で 自己の墳墓を巨大化し、威光を誇示する為のプロジェクトが、その 興りだとされている。ここで、その事業の合切を任されるのが天才建築家イムホテプ だ。当時、役職としては宰相という立場であるが、 建築設計師、プランナーとしての才能にも特化し、 ピラミッド建築の定礎を据えた存在として、神格化されている。 後世のピラミッド建築の大概は、 どれも此れに倣うものであり、後の1000年に至るまでの累々たるピラミッド建築の途方は、 先ずこの第1号基を基礎とした 、その踏襲形態である。と、言っていい。革命的な造型と威厳を示した点に措いては、 天才と呼ぶに相応しい冠だろう。 これより前時代の墳墓とは、単なる縦穴を10〜50m 掘り下げ、そこに遺体を埋葬し、地上部を干しレンガを積んで方形の台状を築く、 という非常に単純な物であった。いわゆるマスタバと 呼ばれるものだ。ここでイムホテプは、当時ジェセル王が存命中にほぼ完成していた 、大型のジェセル王自身の、 このマスタバの周囲を一回り大きく増築し、 更に上部に同型方形の台座を築いた。更にその上部に・・・来々、と云う具合に 結果として中途過程で4段の階段式のピラミッドとして改築させたいう。 |
この後、北と西方向の2側面を暫時増築し、最終的に6段の 階段ピラミッドとして完成させた。底辺140×118m、高さは60mにもなる 堂々たる建築物だ。 この階段造型の意図は、王が天に登るための文字通りの階段 なのだ、というのが学術的な推測である。 前時代の墳墓とは、 干しレンガを使うのが通例とされてきた。が 故に、素材の脆弱さが巨大建築の途方を阻む要因の一つだった。 ここにきて、イムホテプが石材を使用した気転もまた、大いなる変革だった。 石灰岩や化粧石の採掘は、エジプト各地から執り行われのだろう。 上エジプトと下エジプトの中央地点に在った、当時の首都メンフィスに 程近い当地サッカーラにピラミッドを建築することは、流通面に措いても 道理に叶うもだったのだろう。 |
内部の入場は、南に位置した入場口から参る。巨大な石柱が 左右に並ぶ大参道だ。この参道の行き着く先にはウナス王のピラミッドがある。 崩れた小さな丘といった感じであるが、化粧石の塗石断面なども観察できて 面白い存在になっている。 付近には縦穴式墳墓もある。実のところ、このマスタバ という埋葬形式は、前時代の昔より墓の盗掘や 荒らしに悩まされてきた経緯があったようだ。埋葬に至ってはより深淵に掘り下げる程度 こそが、その王の威権だった。地表部にさらに重い石版で蓋をしたり苦心したのだが 、やはり被害はあったようで、さらに地上部に多量の土塁や石材で 盛り立てる事が、その堤防に成り得る、との意図もピラミッド建築には あったのだろう。 |
付近には様々な小塚や墳墓がある。敷地内は全面砂地で、歩き廻ることにも多いので 水分補給のためのペットボトル水は多めに持参したほうが良さそうだ。 |
ヒエログリフとロゼッタストーン遺跡の壁画や玄室に描かれるヒエログリフ文字の解読は、 古代エジプト史の考古学上、長年に渇望されてきたテーマだった。 完全なる解読に成功すれば、過去からの史記、時代背景、王達の名や系譜など、 その恩恵は図り知れないものだった。しかし、この文字は 鳥やライオンなどの動物が描かれる事もあれば、対して円やギザギザ線などあまりに 抽象的なマーク等もが入り混じり、 その法則性も見出せず終いで、解読を困難にさせていた。 1799年のその時までは |
ナポレオンのエジプト遠征軍が、地中海沿岸のアレキサンドリア より東に50kmに位置する、エルラシードに駐屯していた。 ナイル川の河口に拓けた地方都市であったその地で、軍員の1人が偶然に巨大な石版を 発見する。内容は法令を示したものであり、紀元前196年のメンフィス法令である、という。 何よりも、その石版が重要視されたのは、3種類の文字が同時に記載されていた事だ。 上層をヒエログリフ、中層に古代エジプト公語、下層をギリシャ語に、 それぞれ併記されていた。 エジプト考古学史が、飛躍的に前進を果たし得る手掛かりを掴んだ歴史的瞬間だった。 この地、エルラシードを、フランス語で『ロゼッタ』と読む。 このロゼッタストーンを元に多くの考古学研究者や言語学者が ヒエログリフ文字の解読 の指向を試みていった。この解読に生涯を捧げ、ほぼ完成形まで引導させたのが フランソワ・シャンポリオンというフランス人だ。 |
彼は語学の天才であったという。青年期には10ヶ国の言葉を操る 有識者だった。兄の助けもありシャンポリオンは、パピルスや古代エジプトの 資料品の多くを収集し、ロゼッタストーンと共にその解読に没頭した。 ようやく、それが完成したのは1822年で、 ロゼッタストーンの大発見から23年の月日が経っていた。狙い通りに スラスラとヒエログリフ文字を読み解くことが出来た瞬間、彼はあまりの興奮で卒倒してしまい、 暫くの間、昏睡状態になったという。 その年、パリで正式な解読の論文を発表し、その後も精力的に ヒエログリフの探求に心血を注いだが、ほどなくして 脳溢血で死んでしまった。享年41 シャンポリオンが命を捧げるまで心酔し解明したヒエログリフ文字は現在、ほぼ全文 解訳できるそうである。彼にして、その業績と尊敬の念を表し、その名は現在 「古代エジプト学の父」と代名されている。 ロゼッタストーンは現在、イギリスの大英博物館にある。 聖牛アピス北行路には猫の墓地や、牛を葬る動物達の マスタバ群が点在する。 アピスは古代エジプトに措いては、プタハ神の化身とされ崇拝の対象だった。 北路に位置するセラペウムは聖牛アピスの為にだけ造られた大墳墓だ。 |
歩き廻ったら、少し疲れてしまった。駐車場では爺さんが待ってい た。キーを捻り、エンジンを掛ける。観光を終了しエリアを退場した車は、 もと来た道を辿るが、 長い直進道路では大きな建物といえばカーペットスクールくらいしか存在しない。 このスクールとは、カーペット の製作工程を見学できる施設のようで、ツアーを組んだ場合は何所かしら に立ち寄るのが常だという。地域の 産業と観光の共有を担っているのだろう。 |