私の
(とらバス)の日程は、初日の午前と午後で2史跡、翌日の午前で2史跡
を廻るという
スケジュールだった。本日、2日目の予定は、東洋のモナリザとして名高い
「バンテアイ・スレイ」と、巨木の根が絡みつくジャングルからの格子窓を切り取ったような
風景で有名な
「タ・プローム」だ。どちらも、アンコールワット観光の中では外せないメジャー級の史跡だ。
『おはようございま〜す!今日はチョッと遠いですよ。 バンテアイ・スレイの後、帰り道でタ・プロームに寄ります』 本日のガイドも昨日と同じくパンニャーちゃんだ。先に見学するバンテアイ・スレイは シュムリアップ市街地から北東15kmほどと、やや郊外に位置する。 東バライ地区のプレ・ループと東メボンの間、プラダク村方面から 山岳道路を登る行程だ。 |
バンテアイ・スレイその構成は 最外周の壁と、内部に大きめの環濠を有し中央祠堂が島に浮かんでいるような配置になる。 東口と西口に橋が架けてあり、島の周囲を運営側が造った 柵が囲っており、その周りのエリア のみが見学可能という構成になっている。 他の遺跡には見られない、妙な厳戒態勢が存在している。四方形見学路自体も1辺が100m程のみ、とかなり小規模なものだ。 寺院規模としても一連のアンコール史跡群の中では最小の部類に入る。 |
見学道は第二回廊の沿道のみで、 綱に繋がれた柵の内部へは入れない。何故か? あまりの美しさにデバター像を盗難する者が出てくるからだ。 アンドレ・マルローは有名な話である。この実際、彼に盗まれたデバター像(カンボジア紙幣 50Rのデザインにもなっている個体)は、現在、 柵越し約10m先の、遠視からのみしか見学できない。 敷地を半周廻った北側の 綱で結ばれた、テラススタイルの窓 枠から覗くアングル方向が、粋な写真の撮り方のようで、付近からはシャッター音が響いている。 |
『お写真をお撮りしますよ』 ガイドにコンデジを渡し、デバターを背景に撮影してもたった。飽き足らずに 返却してもらったカメラで、更にしつこく女神像を激写してやった。パシャッ!パシャッ! イイヨーイイヨーキレイダヨー 『フフフッ、日本の方は本当にカメラが好きですよねぇ』 どうやら、私のステレオタイプの日本人的行動が彼女を苦笑させて いたようだ。 デバター像以外でも バンテアイ・スレイ全般で、非常に彫りが深く 立体的で躍動感がある。そのまま持って帰りたい、部屋に飾りたい、という 気分にさせるのは、何だか解る気がした。 バンテアイ・スレイの命名とは、 バンテアイが『砦』、スレイは『女』を意味するのだという。 実際、バンテアイ・スレイの標高は68mとあり、市内からの 行程はゆったりであるが登り坂を上ることになる。 アンドレ・マルローにしても、1920年代のカンボジアとは交通機関も未発達で、彼の場合、 メコン川を遡上しトレンサップ湖からシェムリアップに入り、更にジャングルを かき分け文字通りの‘砦’に位置する、この史跡バンテアイ・スレイまで 死ぬ思いで辿り着いた。冒険野朗を地で行く様な道程の先、 艱難辛苦の果てに見た女神デバター像が、余計に華麗に映ったのも無理はない話なのかもしれない。 |
よく見ると、経蔵や祠堂の入口も彫刻である。 開かずの扉、 『偽扉』というわけだ。この 偽扉は比較的多く、ほかのクメール寺院でもよく目にする。 |
比較対象として、その石材の違いからくる色彩の外観相違にも注目したい。 基礎石としてラテライトは同様であるが、表装の砂岩は赤色の 種類を使用しているため燃え上がるような紅色を帯びている。創建年はジャシャヴァルマン五世 の時代、961年と碑文により はっきり判明している。長い年月を経て細密を極める壁面彫刻が残存し得たのは、 紅色砂岩がグレー色のものより質が良いためだったと推測されている。 |
門前の柱を繋ぐ、まぐさ石も芸術品の域の細密さだ。 このバンテアイ・スレイ遺跡だけで、 一般的なカーラ(インド神話の神で、まぐさ石には最も多く描かれている)の構図から、さらに 様々に十数パターン存在する。上記の 絵柄は 、象のシャワーを浴びるラクシュミー(ヴィシュヌ神の妻)という構図のもの。 石工によって切り出した荒い石材は棟梁のもとで、図師、彫り師、塗り師などが 分担で美術施工をした。それは一つの集団として村を形成し、建設の年月を延べ 家族や世襲を作った。そんな集落が 遺跡の周辺に出来ては消えたという。 |
上記の左は、カーラの口からナーガが飛び出している一般的構図のもの。右が 瞑想をするシヴァ神を下段から魔王 ラーマーヤナが命を狙うという構図。ラーマーヤナは20本の腕と10の頭を持つ魔王であり、周囲の虎や象や 魔物を嗾けようとしてる。 |
造形物は動物をモチーフとしているものが多いようである。 |