横穴古墳群は5世紀〜8世紀頃、いわゆる古墳時代に盛んにつくられてい ました。たいていは 複数単位で集結し、横穴墓群として九州から東北まで全国各地に点在しています。 斜面に横穴を築いて人間を埋葬したもので、人骨の他に、 土器や勾玉などの出土品が 出ることもあります。横穴は斜面の砂層や弱い土質をくり貫いた形が 多く、壁面には彩色が施された例もいくつかみられるようです。 現代の問題として、その脆弱な岩盤ゆえに保存が難しく、見学できるよう整備できない施設 も多いようです。 市ヶ尾横穴古墳群(神奈川県横浜市) |
構成はA群とB群によって成り、それぞれ12基と7基の計19基の規模です。 玄室内部まで入室可能なのは、AとB共に2基程度を数えるのみです。写真上、横穴入り口は 岩盤の削岩穴のように写っていますが、元々は脆弱な土質の斜面であり、 現在は見学用にコンクリートをパテ塗りしたような 補強壁になっており、叩くとコツコツと軽い音がします。 横穴群の敷地内全体は 歩道も綺麗に整備されている構成で、 住宅地の中にあって訪れる人も少ない静かな公園のような佇まいです。 |
死者を葬る玄室、その廊下の部分である羨道(せんどう)、入り口の 部分にあたる前庭部に分けられます。複雑な構造は無く、高径は羨道は1mくらいで奥に 行くに従い広く高くなり、玄室部で2m程度。奥行きは5mくらいです。 A群から特に、 A−4の前庭部からは、埋葬用の土器である「須恵器」の破片が多数見つかり ました。この市ヶ尾横穴古墳群は、この地方を支配した 豪族達の墳墓であると考えられており、有力者の近親者を 次々と埋葬した家族墓の施設のようで、発掘により多数の人骨が出たといいます。 |
B群から特に、 B−6の玄室が完全方形であること、B−5からは勾玉などの高価値な副葬品が 出土したことが上げられます。 市ヶ尾横穴古墳群は、1933年と1956年に大々的な発掘 調査が行われ、1957年に 神奈川県指定史跡になりました。 |
横穴古墳群を西方向に500m程の位置に、稲荷川古墳群があります。 現在保存されているのは、15、16、17号墳です。特に16号墳は全国でも数少ない 前方後円墳の一つで、神奈川県下では最初に発見された貴重な史跡であり、昭和45年には 丘陵全体が県の指定史跡と定められました。 丘になっていますが、歩道が整備されて3分程度で直ぐ登頂できます。 全長は37mと ありますが見た限りでは、かろうじて括れの部分が確認できるかな、といった印象が実際でした。 楊谷寺横穴群(神奈川県大磯町) |
楊谷寺横穴群は大磯町のシンボル、高麗山の山道の中腹にあります。 JR大磯駅の裏から入山するルートが近いでしょう。時間にして15分程度の登りで 到達できます。 大磯丘陵もまた横穴密集地区として有名で、時代にして 古墳時代後期に属し計27基の存在が確認されています。形態が多種みられ るのが特徴で、天井が屋根型になっている家形横穴墓、 通常の横穴の脇に側室を 設けた棺室横穴墓、などがあり横穴墓群後期に至る形態変遷の指標になり得る重要 な史跡の一つです。 斜面の岩盤は強石質で、頑丈な造りでした。 |
R1を大磯駅から西方向に2kmほど行くと、城山公園があります。 ここにも横穴古墳群 があり、公園敷地内に計32基、特に 郷土資料館の南側地区には12基が密集しています。柵によって内部の 入場は阻まれていますが、目視上では強岩盤を削岩している堅固な造りのように見えました。 大磯町郷土資料館には横穴墓から出土した土器等が展示されています。 館内は縄文時代から現在に至るまで、大磯地区にまつわる歴史遺品を様々に 展示公開しています。 吉見百穴(埼玉県比企郡吉見町) |
吉見百穴の横穴墓の総数は現在219基が確認されており、 横穴古墳墓の規模としては名実ともに日本一で、横穴墓と いえば「吉見百穴」と思い浮かべる方も多いとききます。 吉見町に所在がありますが、電車での 観光であるなら東松山駅が最寄になります。車ですと門前に大きな駐車場も併設されており、 交通の便も大変良いようです。 |
目の前にすると、かなりのど迫力です。 古墳時代後期のもので、岩盤の斜面を削りだした横穴群であり、同時期に造られたものと構造はだいたい 共通 していますが、各々で、上下、左右に配列の規則性が確認できる部分も存在します。 計画性造営や長期の追葬を狙って掘り出されたことも考えられます。 古墳時代の隆盛を物語る横穴墓群の集大成と言っていいでしょう。 吉見百穴の造られた時代は古墳時代後期の、その穴構造や文化はかなり煮詰まった頃であり、 一方、647年には「薄葬令」が出された時代でもあります。中央集権の大和朝廷が、地方豪族を 抑える目的で必要以上に墳墓を巨大に造らず、薄く淡白せよ(具体的には 人馬の殉死殉葬を禁止し、天皇の陵にかける時間を7日以内に制限するなど) という内容の勅令を出し、この以降から古墳は小規模になり、 同時に横穴墓も造られなくなりました。 |
その後しばらくの間、この横穴は人々から忘れ去られた存在でした。 どうして此処にこんな不思議な横穴が沢山あるのか? 長年、地方の住民も首を傾げるものに成り果てましたが、東京大学の坪井正五郎がこの遺跡に着目、 明治20年に大々的な発掘が行われました。 発掘調査では玉類、土器などが発見され、結果、「これはコロポックル 人の住居である」と結論付けました。 しかし、大正時代に入ると白井光太郎が これに反論、「住居穴としては簡素で小さすぎる、何よりもコロポックル人自体の 存在が確認できない」と掲載上で述べ、当時、大激論になったそうです。現在は 集合墳墓という説が定説となっています。 |
私が見た限り、羨道は他のものと比べ短いと感じました。高い位置 での削岩作業や効率性からも、その様に造る意図があったのではないのでしょうか。 吉見百穴の横穴墓群は 凝灰岩から成り、これは石質の中では軟弱な部類であり 、古代人も軟らかな部分を狙って削合したようです。実際、手で叩くと コンコンと乾いた音が響いていました。 |
それでも、1つの横穴を完成されるのに数人の人労で、十数日 近くは要しただろう、と計算されています。天井のアーチや隅の鋭角部には、釘 などの細い工具を使用して整形したようで、刮目すれば部分的に切り跡や削り痕を確認 することができます。 |
左側2〜3穴に、 「ひかりごけ」があり金網越しに観察できます。 |
横穴群の近くに、 岩盤をそのままくり抜いて地下軍需工場を造った跡があります。 太平洋戦争末期、飛行機のエンジン部を製造する目的で、富士重工が大宮の 工場を移転させる目的で掘った跡になります。網の目の非常に整然と整備された 通路で、まず迷うことは無いでが見学範囲は全路における1/10程度にとどまり、 侵入禁止区域の前には頑丈な金網が張ってあります。 B29の絨毯爆撃から工場施設の隠遁を計る目的もあったのでしょう。また、 堀削には全国から朝鮮人を三千人あまり集め、昼夜を問わない突貫工事で進められた といい、終戦直前には学徒動員もされたとあります。当時の旧日本軍が、 相当切羽詰っていただろう感がうかがえます。 ダイナマイトを使用して工事は行われたようですが、 落盤事故等も発生し作業は難航したと言われています。それでも、 末期の7月になって漸くエンジン部品の生産にこぎ着けたようですが、 そのまま直ぐに終戦という結末を迎えました。 |
階段の上り下りを加味した一通りの敷地見学を終えて、 ぷぅ〜疲れた、とばかりに 自販機脇のベンチに腰を下ろしコーラをガブ飲み していると、売店の気のいい店主が話し掛けてきました。 『店の中に貴重な写真があるから、見ていきなよ! スピッツの写真とかあるからさ〜』 「あっ、どうも」 内部に飾ってあった写真は、犬ではなくバンドの方のスピッツ の写真でした。 何でも、PV撮影に当施設を使ったようでファンの間では有名らしく、 聖地巡礼とばかりにスピッツ信者が全国から訪れるのだそうです。スピッツなら、 空も飛べるはずだから横穴墓群くらいの観光など甚だ容易でしょう。 『こっちは、地下軍需工場で穴掘る前の貴重な写真だよ。 んで、これは本物の出土品。剣だね』 巨大穴が開けらていない、まだ横穴群が理路整然と 並んでいた時代の写真でした。大正時代〜昭和初期のころでしょうか。また、 出土品は ガラスケースに入れられ、なかなかの貴重品のようです。敷地内は資料展示館も 併設され地区の郷土史を学べることができ、文化財センターでは埴輪を つくる教室が開かれるとのことです。 出山横穴墓群8号墓(東京都三鷹市) |
チョッと場所がわかりにくいです。人見街道(R110)という 道路の脇に「ほたるの里」という大看板が見え、そのY字路交差点の、さらに 側道を折れるという行程になります。 |
計10基確認されていますが、まともに見学できるのは 第8号墓くらいに限られています。本基の特徴としては、 発掘時、玄室に綺麗な状態の4人の遺体を発見した事です。 |
1993年の調査のことで、その骨は30代と40代の男性、20代の女性と8歳前後の 小児だとわかりました。現在は、見学用の8号墓内に はレプリカの人骨が展示してあります。建物も中々に 立派なものですが、見学時間は16時までと若干早めに終了しますのでご注意ください。 付近一帯は大沢の里と呼ばれ、ほたるの自生区として有名のようです。 |
そのまま、人見街道を西方向に行くと近藤勇の墓と、生家跡があります。 歩いて5分くらいの距離ですので、一緒に観光しても良いかと思います。 柏谷横穴群(静岡県函南町) |
柏谷公園の敷地内にあり、所在は住宅地のド真ん中になります 。函南市役所がある十字路「岐れ道」からR136を東方向に500mほど進むと 公園方向に折れる道がありますので、そこを伝えば道1本で到達でき、迷う事もないでしょう。 |
現在総計で106基確認されています。A〜Eまで地区分され呼ばれていますが、付近の住宅地にも 散在しているものもあり気軽に公園内範疇で見学できるモノは、B、C、Dあたりに限られています。 C地区は公園の中心に位置しており、斜面の補強もしっかりしています。保存のためにネットをかぶせて モルタルを吹き付けるといった行程で仕上げてあります。上下2層と並んでおり、時代としては古墳時代の後期 の頃の史跡で、 始めに下段が、それから順次上段が製作されました。C地区での総数は23基あります。 実際に穴に入ってみると、比較的大きな空間でした。 本基の特徴としては、横穴の前に「墓前域」と呼ばれる窪みがあり発掘で土器が大量に発見されたことです。 死者の霊を慰める供養祭を行った跡だと考えられています。また、各横穴を結ぶ連絡路として「墓道」が形成 された跡も確認されました。 |
B地区は観光用加工の少ない 自然な状態の横穴墓を観察できます。その種類も大小多々に富み、火葬骨を埋納したモノもあり 用途も様々だったようです。 |
特に興味深いのは12号墓です。この横穴墓には奥壁の中央に棺をおさめる「納棺施設」が あり、その奥行き径は2m15cmにもなります。 |
やはり岩盤が脆弱なため、いくつかの穴は閉鎖されているようです。1〜6号墓 は調査後に閉鎖され、現在は小丘の形態になっていました。 公園外れの公道沿い地区にある、125号と127号の2基は伊豆地方の横穴墓では 最古のモノであると言われています。 |
公園内は、弥生時代の人々の住居が再現されています。 |
高床倉庫には、あの有名な「ねずみ返し」が再現されています。 |
大満横穴群(千葉県富津市)もともと富津市にも大小様々に横穴群があったようで、現在、市内で 総計800基ちかくが確認され、中でも 大満横穴群は湊川下流北岸の台地斜面にあり、総数66基 と勿論に市内最大規模を誇ります。所在はR465の高速道路のと併走している区間、岩坂と 呼ばれる辺り、行程としては併走区の真ん中の信号を折れる、天羽中学校へ 通ずる通学路付近にあります。 事前に富津市役所の教育部の方に、おおよその場所をお聞きしたのですが、 全然それらしいモノが見つからなく困ってしまいました。フッと周りを見れば、 農作業中のおばあちゃんが居たので、 「すいませ〜ん、大満横穴群ってのはどの辺ですか?」 『ああ、あそこに緑のネットがあるじゃろ、 あの切れ目辺りから山中に入ってくんじゃて〜。 ネットは猪避けの策でして、中は暗くて薄気味悪いから 気を付けて行きなはれぇ〜や〜』 |
おばあちゃんに親切なガイドを頂き、何とか入り口(らしき)所 までは到着しました。内部は竹林の乱立状態で、およそ獣道と呼ぶに相応しい道程です。 枝や木材で橋状の道標を製作してあるのですが、それ自体が腐っていて膝の辺りまで 突然ズボっと深く 埋まってしまう、また、棘の尖った草木が生い茂り肌を切るは、泥地で靴が丸ごと埋没するは、で 大変難儀な思いをしました。 もし、これから見学に行かれようとする方には、冗談抜きに ゴム長靴と長袖長ズボンの持参をお勧めします。 |
本基の特徴としては、棺床に貝殻が塊状に残され 壁面には帆船の線刻が見られることです。他の横穴とは傾向がかなり違っており、 全国的にも他の類をみないそうです。 更に、壁面には赤色の文様が漆喰で塗られており、 その他、人骨や須恵器(すえき)・土師器(はじき)・直刀(ちょくとう)・ 鉄鏃(てつぞく)・鉄製釣針(つりばり)なども出土しています。 |
白坂横穴群(東京都町田市)町田市の三輪町という場所にあります。現在、13基が確認されていますが、見学が可能 な状態の穴墓は2基に限られています。鶴見川 に沿って上流を遡ると、沢谷戸自然公園という開放公園が あり、横穴墓はその近くにあります。公園区画内ではなく、脇にそれた一般道から 入場するようになります。場所は判り難い上、 駐車場等は一切なく道も狭く民家の立ち並ぶ区域ですので、車での履行は避けたほうが いいでしょう。 |
鉄柵が掛けられており 内部に侵入することは叶いませんでしたが、入り口からの観察でしたが、かなりの大型墓で 奥行き、 玄室の共に相当に尺があることがわかります。 |
ドーム状に整形した行程や、器具での削岩跡が綺麗に残っています。 昭和34年の発掘では 数体の遺骨、須恵器などの発見もありました。白坂横穴墓は 多摩丘陵横穴墓群の中でも特に墓穴が集中している場所だそうです。 |
北江間横穴群(静岡県伊豆の国市)R134上で伊豆中央道というバイパスとクロスしている場所があります。北江間横穴群は、この近くにあります。 陸橋から 西寄りに最初の交差点(バス停有り)を折れ、そのまま道成りに進むとY字路があり、右に 進路を取ると暫くして入り口看板があります。当地に繋がる入場門が 非常に狭く、民家の塀の両脇を 横切るような行程でした。申し訳ない思いで、その小道を進み丘陵の階段を登り切ると2つの ドデカイ 穴墓が見えてきます。 |
1、2号墓はかなり大型です。チョッとしたほら穴でした。本基の 特徴としては、内部に石棺があり埋葬の様式が非常に凝っている事です。蓋付き構造の 石棺のほか、玄室 部の底面を刳り貫いた構造の埋葬様式も見られます。 現在、全体で計10基の横穴が確認されています。 |
石棺の中央には穴がありました。石棺自体も大型で、石切の行程や、 丘陵の頂上にこの重量体を引き上げる技術など、当時としてはかなり最先端の技術で施工された だろう事がうかがえます。 |
1、2号墓に並んで、そのまま北方向に更に8基あります。玄室部の 凝灰岩を刳り貫いた縦穴や、その削岩行程に措いて天井部に工具が使用された跡なども 確認することが出来ます。 |
大日ヶ窪横穴墓群(神奈川県二宮町) |
R1の二宮交差点を折れると、R71にリンクしていきます。 しばらくすると「二宮高校入口」という信号付きの交差点があるので、その道を 折れます。付近は新興住宅地になってます。最初のY字路を左に進路を取り、 さらに進むと丘状の斜面がみえてきます。緑が丘古墳公園と呼ばれ、 その区画内に横穴群はあります。 付近の住民の方の為の、ほんの小さな公園なので駐車場はありませんでした。 自転車やバイク程度なら、公園入り口のスペースに置くことはできると思います。 |
計33基の存在を確認しています。見学可能な横穴について は園内斜面に柵が形成され、柵越しでの観察というかたちになり 内部の入場は叶いませんでしたが、奥行きが非常に長いモノも1〜2点確認する事ができました。 サイズは様々あるようです。時期としては7世紀前半から8世紀に掘られたものだと 推測されています。 昭和55年の発掘調査では、蓋付坏形土器や人骨が出土したといいます。現在、園内には 数体の埴輪ミニチュワが配置され、古墳時代の面影 を再現する演出がなされています。 |
大日ヶ窪横穴墓群のある、緑が丘地区から北上にR71沿いに進むと R62とクロスします。このR62を東方向に進むと「南金目」という交差点に当たります。 ロケーションとしては平塚市になりますが、この道をR246方向に更に進むと『塚越古墳』 があります。距離として、7〜8kmくらいです。 古墳と周囲は公園として整備され、無料で開放されています。 綺麗な形の前方後方墳で、大きさは55m、 神奈川県下では最大級の規模を誇っています。素人が見ても、簡単に 形状が理解できる前方後方墳でした。造成は4世紀頃とみられています。 |
神光寺横穴古墳群(神奈川県藤沢市) |
藤沢市のR32に「川名」という交差点があります。そこの1つ隣 の信号付き5差路の1本から入っていきます。 道成りに300mほど進むと神光寺という寺があり、横穴群はその斜面にあります。 |
片瀬丘陵に全体として100基ちかく確認されています。その内、 神光寺周辺に7基あり、見学できるのは右から3基程度です。残りの数基も程近い 斜面に続いていますが、 左側は民家の裏庭に並んでおり立ち入る事はできません。 それぞれ断壁に、地面より3〜5mくらいの高さで開口しており、内部を覗き見る為には岩肌を 這い上がるような運動が必要になります。 全体的に小振りな規模で、右から2番目と3番目は玄室部で繋がった構造でした。構築年代は 古墳時代の末期、8世紀頃と推定されています。 |
鵜の木一丁目横穴墓群(東京都大田区) |
最寄駅は東急多摩川線の「鵜の木」駅になります。駅の脇、郵便局がある十字路を 坂に向かって進むと、 松山公園という開放公園があります。横穴群は、その園内遊歩道にあります。 公園には猫がたくさんいました。 |
大田区周辺の台地斜面に、現在、260基ほど確認されています。 うち、鵜の木一丁目には7基群在してますが、発掘調査後に羨門を再埋没し閉鎖したことから 、現在、見学可能なものは1基だけとなっています。 ガラス板越しでの見学体系です。この6号墓では2005年に行われた調査で 3体の遺体が発見されました。特徴として全体で奥行き11mと尺があり、また大田区周辺の 横穴墓に特異的な 切石羨門構造が3重もある事から、貴重な遺跡資料として注目されています。 田島横穴古墳群(神奈川県小田原市) |
R72に 「田島石橋」という信号付き交差点があるので、そこを折れます。直ぐのカーブにある (やまゆりライン)という黄色い看板が入口の目印です。 その標識の下に案内板が出ています。 |
農道を暫く進むと、橋があり、続く道が丘に上がっていく山道に成ります。 横穴はその坂道の斜面に沿うかたちで点々と存在しています。低地から高地に従い順々に 号数が小さくなるように各々番号が付けてあります。 現在、 田島横穴古墳群は総数32基確認されており、うち12基がこの山道沿いに集合してます。 多くは道路整備の際の近年に発見された横穴ですが、古くは、 天和元年(1681年)にはすでに2基確認されていました。穴内に弁天様が 祀られていたことから「田島弁天山横穴墓群」とも呼ばれています。 |
8号墓では、男女2体の遺体と副葬品の発掘がありました。隣の7号と6号は、玄室部で細い通路を介し 連絡してある構造でした。 1975年の発掘では、自然釉壷や長頚瓶などの須恵器、土師器坏など 相模地方における貴重な資料も出土しました。 |
田島横穴古墳群から北上に1.5kmくらい行くと、曽我祐信宝篋印塔があります。 みかん畑が群生する農道を丘の上に向けて登る行程になります。舗装道路でしたが、道は車がすれ違う のにもギリギリの道幅でした。印塔の近くには駐車場等は有りません。 高径は2.2mあり、基壇の上に連座、基礎、塔身、笠、相輪の順で積み上げられ、その構造は 関東地方に於ける宝篋印塔の基本形を備えています。造立の年代や大工名などは一切不明だそうです。 |
R72沿いは曽我梅林として知られ、毎年2〜3月にかけて梅の花が満開に咲き誇ります。 それに合わせて曽我別所梅まつりも開催され、獅子舞や流鏑馬などの催し事も行われ大変な賑わいをみせます。 |
生田長者穴横穴墓群(神奈川県川崎市)向ヶ丘遊園駅の南口より生田緑地方面に下り、稲生橋の交差点を超え、Y字路を過ぎた最初の信号付き交差点(対面に 飯室会館という鳥居のある集会所がある)を右に折れます。丘陵の斜面にすでに横穴が開口しているのが見えてきますが、 こちらは板で閉鎖されて内部を観察する事は出来ません。 |
200mほど進むと、丘の頂上に向け登り木橋が整備されている入口が見えてきます。 「生田長者穴横穴墓群」として飯室山全体で30基くらいの横穴を確認していまして、 この木橋の両側に、左が2基、右に10基ほどが集合しています。こちらは観察が可能で大きさとして大小様々ですが、 私の見た限りでは、羨門の矮小さ に反して内部がかなり広い印象を受けました。深いものでは奥行き6m近くの穴もあるようです。 |
1968年の宅地造成の開発を機に、以降3回にわたり発掘調査がありました。 これにより人骨や歯、副葬品については金環や勾玉、その他に鉄製の武器なども出土しました。 |
古来より、横穴の存在は知られており新編武蔵風土記稿には「長者の穴」として 記述が確認されています。 |
生田緑地は、ばら苑が有名で年2回の春と秋の季節限定で開園を催しており、 この時だけは大変な賑わいをみせます。 |
七石山横穴古墳群(神奈川県横浜市) |
JR本郷台駅の正面から出て右に折れると、 「本郷台駅入口」交差点があるので、ここを右折します。根岸線の架橋前の道を左に折れ、 路線に沿うように(西方向に)進みます。 |
200mほど進むと線路を挟んで、丘が見えます。栄第一水再生センターの裏 あたりです。線路をくぐるトンネルがあるので、その先の小道 を伝うと、その後は道成り一本で入口まで 到達できます。駐車場はありませんが、案内板の脇に小さな空き地があるので、 自転車やバイクくらいなら停める事は出来そうです。 |
この地区で、10基ほど確認しましたが、半分くらいは土に埋もれて 見学できませんでした。 |
線路寄り 一番奥の横穴が状態が良いようです。削岩の跡 や、天井の綺麗なアーチが確認できます。 |
梨の木坂横穴墓群(神奈川県座間市) |
小田急小田原線の座間駅が最寄になります。駅を出たら、厚木方向 に向かって歩いていくと下り坂に変わります。梨の木坂と呼ばれる古坂です。明和 年間の『座間古説』という古文書にも、梨の木諏訪坂として記載されていました。古くから 知られていた坂のようです。 この斜面を利用した横穴墓群で、 坂の歩道沿いに説明文の看板があり、更に少し下った場所に横穴への入口があります。 |
本基の特徴は、羨門を形造る石積が綺麗な状態で残っており、現代にその築成方法 を探求する貴重な手掛かりになっていること。そして、発掘により人骨と鉄器、さらに ガラス玉を検出したことです。 梨の木坂横穴墓群で10基ほど確認されていますが、見学可能な横穴は2基ほどに 限られているようです。 |
正面向かって、左が一号墓で右が二号墓です。かなり奥行き寸が あり奥壁まで7mと光も届かない状態でした。玄室は綺麗なドーム状でしたが、 羨門が非常に狭く内部への進入は 不可能でした。 下三輪玉田谷戸横穴墓群(東京都町田市) |
所在は町田市と横浜市の境辺りになります。アクセスは 横浜市青葉区の「寺谷ふるさと村」 からの方が簡単のようです。 ふるさと村とは、商業テーマパークではなく丘陵一帯を公園のように整備した施設(無料)で、 各観光スポットは車で移動可能な舗装路の脇に、各々点在している構成です。 このうち、水路沿いの農道脇に水車小屋があり、脇から小道が出ていて、その 登り坂を5分くらい行くと横穴墓群に辿り着きます。 |
説明板の位置から、奥に向かって4〜1号墓と順に番号付けしてあり 、全てに金属製柵が衝立してあります。また、 2号と4号墓は土に埋もれ内部を覗くことも不可能です。 1号と3号は柵越しに見学が可能です。本基の特徴は、 全国的にも珍しい天井部分に屋根構造を浮き彫 りで表現した「家形横穴墓」であることです。 都内では、二基しか確認されていないとの事です。 |
根坂間横穴墓群(神奈川県平塚市) |
R1経由なら、高麗山の手前にある「相模貨物駅前」交差点で折れ、 R62を北上すると、暫くしてY字路「上平塚」交差点があるので、そこを左方向に進みます。すると、東海道新幹線 の下を潜る交差点「根坂間」が見えてきます。 そこから、トンネルの上を丘伝いに進むと 案内板が出ているエリアに辿り着きます。 この看板の直ぐ奥に 凹状の窪みが確認できます。しかし、この付近は急斜面のため見学は危険なようです。 通りに何基か存在するようですが、足場も悪い上に 金網も張ってあり、散策は困難というのが現状でした。 |
根坂間横穴群は、 大正8年、平成元年と5年の3回調査が行われ、現在まで計28基の横穴墓が発見されています。 遺物で注目すべきものとして六鈴釧があり、これは群馬県・栃木県に勢力も持った有力な毛野氏の支配範囲から多く が出土することから、毛野国との関連が指摘されています。詳しい説明は、平塚市HPに載ってます。 |
看板の出ているエリアから公園に向かう小道があり、その階段の途中の 電灯がある辺りから茂みに入れます。材木で作った櫓があり、この付近で3基確認できます。 |
内部は比較的広く、うち2基は左右で繋がっているものと思われました。 削岩跡も確認できます。吉沢ローム層という地層を掘り込んで造られているそうです。 |